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なにか表現をすると、かならずそれに対して批判をしてくる人と向き合うことになる。
それは知らない人かもしれないし、ときには親しい友人や家族であることもある。
表現というのは、朗読やダンスや演劇といったものではなくても、日常的な行為にもある。
たとえば、料理をする。
それを出して食べてもらう。
「いまいち塩気が足りないよね」
などというジャッジをくだされることはよくあることだろう。
朗読やダンスや演劇、あるいはブログを書くというような意識的な表現については、さらに批判がはっきりと出てくる。
自分がよいと思って表現したものとか、楽しかったライブの映像記録を公開したりしたとき、思いがけず批判的なリアクションを受けてしまうことがある。
そういった反応をおそれて萎縮し、表現することをやめてしまったり、気にやんで心の病になってしまったりすることがどれほど多いことか、私はずっと見続けてきたし、私もまたそのような批判にさらされつづけてきた人間だ。
それはとても悲しいことだし、多くの可能性の芽がつまれて残念でもあった。
自分にとっては斬新な表現だと信じてやっていたことが、「古くさいよ」と批判されたとする。
そんなとき、どう対処すればいいだろうか。
まずは自分の感情とニーズを確認する。
自分は斬新に表現することについてのニーズと喜びがあり、それを実行できたという満足がある。
が、それにたいして思いがけず、批判的なリアクションがあった。
自分の意図と行為がうまく伝わらなかったことについて、まずは自分を悼むことだ。
つぎに、相手のニーズを推測する。
これはいつものプロセスだ。
相手はどんなことを大切にしていて、このような批判をしてきたのだろうか。
おそらくこちらの表現が相手のニーズをたまたま満たすことができなくて、批判をしてきたのだろう。
それについては残念ではあるけれど、大切なのは、こちらは相手のニーズを満たす義務はない、ということだ。
批判してくる相手を前にすると、つい、なんとかしなければ、と思ってしまうことがある。
とくに声の大きい人や、怒りの感情をあらわにしてくる人を前にすると、そのように思ってしまう。
相手のニーズをなんとか満たすために、自分ができることはないかとかんがえてしまうのだ。
そんな必要はまったくない。
相手のニーズを満たすことができるのは、こちらではなく、当の相手しかいない。
こちらがなんとかしようとかんがえなくてよい。
こちらはこちらのニーズを満たすことだけをかんがえていればよい。
批判されたら、そうなんですね、あなたのニーズを満たせなくて残念でしたね、と共感的に受け止めつつ、自分のニーズを満たすことができたかどうかだけをかんがえる。
どんな人から批判されようがどうしようが、自分は自分のニーズを満たすことだけをかんがえればいいのだ。
それが正直に、誠実に表現する、ということだ。