基礎講座ではどんなことをやるのか?
現代朗読の3本柱みたいなのを考えてます。
ひとつめは、身体のことです。
私たちは身体を使って表現します。朗読ってのは口先だけじゃないよ。口を動かすだけじゃ、とても表現できないんで、身体全体のことを考えます。
口のことと同じくらい、指先やつま先のこともかんがえてほしい。
変な話だけど、お尻の穴が「キュッ」と締まっている時と、ゆるんでいるときとでは表現が変わるのよ。何で変わるかわかる?
演技指導でやらないですかね?「骨盤底筋群」の話。
骨盤底筋群ってのがあって、お尻の穴をキュッと締めると骨盤底筋群が緊張するわけですけど、この骨盤底筋群ってのは腹膜の一番上にある横隔膜と連動してます。骨盤底筋群と横隔膜のあいだに内蔵がまさまってて、横隔膜は呼吸をする時に上下しますよね。これが連動してるんですよ、ゆるやかに。事実としてあります。みなさんもやってみればわかります。
こういうふうに身体のこともやります。呼吸法もやります。それから「コアマッスル」。姿勢筋をなるべくきちんと作っていきたい。
身体そのものに対する意識を高めていきたい。自分の身体についての客観的で緻密な感受性をもっていきたいということです。
そして二番めは頭の中の話ですね。脳みそ。本を読むわけですからね。ここにどんなことが書かれているかとか、それをイメージしたり、あるいは自分が何を考えているかよくわからない自分のこともちょっと感じ取れるようにする。自分の無意識の世界からどうやって反応を取り出すことができるのか。
無意識の世界ってのは自分で意識できないんだけど、でも無意識で何が起こってるか知る方法はないことはないんです。
つまり、自分の反射反応を使うのね。ぽんと音が聞こえた。無意識に反応しちゃうこと、それをうまく顕在化できれば、それは非常に豊かな表現になってくる。
頭の中で「私はこう読もう。あー読もう」っていってるうちは、全然どうってことないんです。それは。全くつまらないです。だってそんなこと誰でも考えられることなんだもの。でも今カラスの声が聞こえた時に「こんなふうに読んじゃった」ってなったとき、見てる人も「この人次どう読むの?」っていうすごいスリルを味わえるんですね。
最後はコミュニケーション。感受性といいかえてもいいです。
コミュニケーションというのは感受性を働かせることですからね。
神経ですよね、感受性ってのはね。人間の神経……センサーの働きですね。
我々は身体の外から色んなものを受け取っています。西洋医学的に言うと、聴覚とか視覚とかそういうもので言い表しちゃうんだけど、もっと総合的に働いてるようなんですね、センサーというのは。
最近読んだ本だけど、ある人がメキシコだかの未開の民族と暮らしていたと。そこはもう文明から隔絶された場所なんだけど、でも文明も少し入りつつあるというところで、その人たちといっしょに暮らしてるんだけど、暑いんで日中はみんな川の中に首まで浸かって涼んでいるんだって。その人もこう入ってたのよ一緒にみんなと。突然、一人がバッって川から出て走り出すわけ、ほかの人もバーって走り出すのよ。何が起こったんだ? って見に行くと、近くに飛行場があるんだけど。文明がきてるからね。一応飛行機だけで来れるんだけど、そこに行くのよ、みんな。なんでそんなとこに行ったんだろうと思うと、15分くらい経って飛行機が来るんだ。
飛行機が来ることがわかるのよ、音もなにも聞こえないうちからね。それだけのセンサーを我々は持ってるんですよ、実は。
でも、文明が発達してそんな必要がないから眠らせちゃってるだけで、実は持ってるんですよ。
昔の剣豪がね、「殺気!」とかいうのあるじゃん? あれ別に嘘じゃないと思うよ。
そのセンサーが働かせられるようになると、コミュニケーションの世界ですからね。例えば、朗読をしている時に自分のセンサーが働き出すと、お客さんひとりひとりの状態がわかる。こっちの人は寝てる、こっちの人はすごい食いついて聞いてくれてる。自分はきちんと集中して読んでるんだよ。でも、周りの様子がクリアにわかるようになる。
これも練習します。これ、重要です。つまり表現というのはコミュニケーション。こうやってるときに周りのみんながわかる。ここに居る人が何かを読むことによって、あちら側で何かが起こっているんです。その起こっていることが返ってきてるのね、ホントは。もうホントに微細な信号として返ってきてるわけですよ。それを受け止めて、この人たちはこういうふうに受け取ってくれてるんだっていう中でまた表現が進んでいったり、変わっていったりする。
まさに表現はコミュニケーションそのものなんですね。
そのために感受性をみがいて、使いたい。
(技術的なことが書いてある紙を配って)こういうのは、発音発声の技術です。日本語の。
その技術を高めていくことを専門にやってる人達がアナウンサーとかナレーターという職業の人たちです。そういう人たちは、日本語の発音発声技術を獲得して、人前で明瞭に美しく、意味を伝えるという仕事をしてますね。情報伝達としての声を使うということをしてます。
でも私たちは、意味伝達をするわけではなくて、表現においてこの技術をどう使うかって話です。日本語がすごく綺麗に、100%近く美しい、正確な発音発声ができるようになったときに、それだけを使って朗読をするのはつまらないよね?
美しく流暢な朗読だけです、それは。ただ、アナウンサーが意味伝達のために読んでるのと同じ。でも、自分は表現するためにやっているので、その技術のどのくらいの部分を使うのかっていう選択肢になるわけです。
「ここは正確に伝えよう。ここはちょっとゆるくほとんどわからないくらいにモゴモゴいっちゃおう」とか。でも、この技術の幅がないと、選択肢の幅が狭くなっちゃうので、技術もやります。
技術を獲得すること自体は目的じゃないです。技術を獲得することで自分の表現の幅を広げる、可動域を広げるということが目的です。
そう思ったら、滑舌練習も楽しいと思いませんか?