現在、すでにスタートしている全6回完結の現代朗読基礎講座で、受講生でゼミ生のひとりが私の話したこと(レコーダーで録音してあった記録)を文字で起こしてくれた。
大変ありがたく、私自身にとっても有意義なものだ。
このことに時間と労力をさいてくれたことに感謝する。
また、現代朗読の講座やワークショップ、ゼミなどでどんなことをやっているのか興味がある方にも、参考にしていただけるのではないかと思う。
【2012年8月9日基礎講座文字起こし】(1/3)
現代朗読協会全体がそうなんですけど、参加者の皆さん一人一人のニーズを大事にして、その人のやりたいこととか大切に思っていることをお互いに共有しながら進めていくという形をとっています。
この基礎講座もそういうふうにやっていきたいと思ってます。
嬉しい、感動する、楽しい、あるいは、悲しい、辛い、苦しい、どんな感情でも必ずその人がなにを大切にしているかという、その部分から来るんですね。
ニーズって言いますけど。
自分のなかにある感情とニーズを大事に扱っていくことで非常に感受性が豊かになってくる。
英語で言うとempathyって言うんですけど、自分を大事にすること、自分に共感をしていくということが、大人になるとだんだん苦手になってくるんですね。
自分の感情を無視する習慣ができてくるんです。
そうすると自分のニーズ、自分自身を大事にしない。
すごく疲れてるとか、あまりやる気がないのに、無理やり仕事行かなきゃという義務感だけで行ったり、会いたくもない人に会ったり、やりたくないことを無理にやったり、ホントはこっちのこれをやりたいと思ってるのに、今はやめとこうあっちを片付けなきゃって思ったり、社会の中で効率とか経済性とかそういうものを重視するように教育されていくわけです。
自分の感情とか自分のニーズをどんどん蔑ろにするように習慣付けられていくと、大人になればなるほど感動は薄れていく。でも、それはもともとあるものなんでもう一回取り戻すことは難しくない。
現代朗読の中では、常に自分の「今ここにいる感覚」を大事にしていきます。
それはまさに自分のニーズを大事にしていくということなんです。マインドフルになっていく。マインドフルという言葉はこれから何度も出てくると思いますけど、マインドフルになっていけば行くほどいろんなことに気づいたり、感動したりするようになります。
子供の時はもう完全にマインドフルですよ! 今ここっていう瞬間しかない。だから何をしても面白い。何をしても……まぁ逆にいえば悲しいこともある。
色んな感情が流れているんですね。我々大人だってそうなんですよ。
でもそれを見ないふりしている。本当は自分の心の中でいろんなことが起こってます。
今この瞬間も嵐のようにいろんな感情が渦巻いてる。
ただ、見ないふりをする習慣を身につけてしまっているだけです。
ステージでイキイキと表現をするために、常にお互いにイキイキ存在するために、現代朗読協会では運営と表現のベースに「共感的コミュニケーション」というのを使っています。
これはお互いのニーズ、大切にしているもの、それをお互いに尊重しあうことですね。
別にそれでお互いに好きになれとかそういう話ではないですよ。
仲良しクラブになれという意味でもないですよ。
ただただ、そのつながりの質を大事にする。
この人はなにを大事にしてるんだろう、ということに繋がっていく。
そういう考え方をします。表現においても場の進め方においても。
この考え方の中に、「自分がやりたくないことは何一つやらないでいい」というものがあります。
自分のニーズに繋がっていないことをやるとそれは不幸を招きます。自分の不幸を招くばかりではなく周りの人にも不幸をもたらします。
実はこれ結構深い考え方なんですけど、おいおいわかっていただく必要がある。
こういうと、何もやらなくてもいいの? って思ってしまうんです。
「じゃあ掃除もしなくいいし、仕事もしなくていいし、お金稼ぐの嫌だ」って。やりたくないって。思うでしょ? そういう浅い考えではない。もっと深く考えていきます。
例えば朝、「仕事行くの嫌だ」と、しょっちゅう思うじゃないですか?
その仕事に行きたくないっていう自分のニーズはなんだろう?
とまず考えるわけです。つまり気楽さのニーズであったり、今ダラダラしていたい、休みたい、休息が必要だというニーズがあって、それに逆らって仕事行くのはすごく嫌だと思ってるんだけど、でも、気楽さ・休息のニーズよりもっと大事なニーズはないだろうか。
例えば自分の生活を安全に快適に続けていくためのニーズ。毎日美味しいご飯が食べられる、お金に困らないとか、そういうことのニーズを大事にしてるからやっぱり仕事に行こう、というところにもう一回接続し直せたら、ちょっと気楽さのニーズもあるけど生活の持続性のニーズの方が今は大事だなと思える。仕事に行きたくなるんです。自然にね。
でも、やっぱり仕事より気楽さや休息のニーズが絶対強いよねって思ってしまったら、それは仕事を休むか、やめるしかない。常に自分の本当のニーズにつながっていく。
ここでもそうですよ。色んなことをやっていきますけど、やりたくないことは何一つやらないでください。自分がやりたいと思ったことだけやってください。
これからエチュードとかいろいろやっていくと思いますけど、「これはやりたくないな。なんか知らないけどやりたくない」と思ったときはそう仰ってください。遠慮なく。無理にやらなくていいですよ。
でも、やらなくていいんだけど、私はそのやりたくないというそのニーズをできれば聞かせていただきたいなって思いますね。それもしゃべりたくないって時はしゃべらなくていいですけど。
これがベースになってるので、覚えていてください。
共感的コミュニケーションの心がけですが、誰かがしゃべっている時にはその人が完全にしゃべりたいことをしゃべり終わるまで聞いてあげましょう。途中で遮られると、話を聞いてもらえなかったってくすぶるんですね。そういう状態は誰ひとり無いようにしたい。みんな言いたいことは全て言える。
表現もそうですよね。全部させてあげましょう。全部受け取りたい。その人がやってる表現を、完全に受け取りたいんですよ。
基礎講座のエチュードの中に、表現の受け取り方のエチュードっていうのがあります。
我々、朗読を観に行ったり、芝居を観に行ったり、映画を観たりするでしょ? そのあと何をするかというと、「つまんなかったよね」とか必ず「ジャッジメント」を下そうとします。
それはつまらないことなんですよ。自分にとっても何の役にも立たないし、相手にとっても何の役にも立ちません。
じゃあどうすればいいかというと、それを完全に受け止めるんですね。判断せずにね。共感をするということです。共感をしながら受け止めていくということの練習をします。
現代朗読のライブの稽古でも、ダメ出しというのは一切やらないです。よく、演劇なんかで稽古のあとでダメだしってのをやるんですけど、あれはホントにろくなことないです。何一つ生産性がないです、あれは。
よく皆さんから、朗読やってても「私の悪いところ指摘してください」と言われるんですけど、そんなことはしません。悪いことなど何一つないという考え方をします。失敗した、噛んだ。読み違えた。それも「読み違えたというパフォーマンス」として受け止める練習をする。その人はありのまま読み違えたわけですから、じゃあ読み違えたあとどういうふうに表現が変わっていく? それを楽しめばいいわけです。
音楽聴きに行く時でも、例えばクラリネットの音が裏返ったとします。それを普通は「失敗した」というわけですよ。でも、それだって人間のやることだから、失敗ということではなくて「裏返ってしまったということそのものを受け止めればいい」という考え方なんですね。
それだって面白いじゃないですか、あの人裏返ったっていう時に、その人の姿がバンドの中で、そこだけ「ポッ」と明かりがついたように生きた存在として見えるんですね。
あー失敗したんだ、あの人どう思ってるかな? とこう生きてくるわけですよ。集団のシステムの中から初めて生きた存在としてその人が見えてくる。
なので私たちも失敗を恐れないで、それも自分の失敗……失敗というか自分が予定していなかったことが起きても、それも自分の生きている証拠だろう、生きているということの偶有性の中で起こってくることなので、それも大事に受け止めていきましょう、それを失敗だと言って自分を蔑ろにして傷つけるのはやめましょうという考え方ですね。