大上段なタイトルをつけてしまったけれど、もちろんこのことについて簡単なブログ記事一本ですませられるとは思っていない。
しかし、いずれしっかりと書きたい。
今日はそのメモ程度に。
知り合いから案内されて、ちょくちょく、いわゆる小劇場演劇を観に行く機会が多い。
とてもおもしろいこともあれば、退屈することもある。
いずれにしても、私は「かつてのように『評価基準』で鑑賞することはもうやめている」ので、どんな退屈な芝居でも学べることは多い。
興味を向けるのは、「この芝居はどのようなニーズにもとづいて作られているのか」という点だ。
脚本家が何週間もついやして書きあげた脚本を、演出家と役者が何十日も人生のなかの限られた時間を使って稽古し、衣装や小道具や効果音と音楽を準備し、小屋にはいれば道具を作り、照明機材を調整する。
そして極めつけが、集客。
役者を含むスタッフ全員にノルマが割り当てられ、観客動員がはかられる。
そのために費やされる時間と労力は並大抵のものではない。
彼らは自分のなんのニーズを満たすために、そのような大変なことをやっているのか。
私の興味はそこにしかない。
私がかんがえる表現活動の本質は、
「だれがだれになにを伝えるのか」
あるいは、
「だれがだれとどのような共有空間を作るのか」
しかない。
人はうまれ落ちた瞬間から、自分を表現したい、つまり自分の存在をだれかに伝えたいという根源的な欲求とともに生きる。
演劇をやるのも、朗読をやるのも、そして音楽も美術もダンスも文学も、そして料理や大工仕事ですら、その欲求にもとづいている。
では、演劇は?
ときに、舞台で脚本に書かれたセリフを演じている役者を見て、それが自分を表現していることになっているのかどうか、疑問に感じることがある。
もちろん役者はそこにいるのだし、観客はまぎれもなく役者の存在をそこに見ているわけだが、彼の存在の本質はそこに提示されているのだろうか。
彼はただ、演劇という使い古された枠組み、つまり、舞台があり、観客がいて、照明があり、音響があり、暗転があって場面転換があり、もったいぶったストーリーがあり、意味深なテーマがあるようなないような、演出から厳格な指示出しとダメ出しをされて、結局のところはがんじがらめにされた自分をさらけだしてしまっているだけではないのだろうか。
彼は自分のニーズをちゃんと満たせているのだろうか。
私は演出家なので、そんな彼の本質的な存在のポテンシャルを最大限に引き出したいという欲求がある。
自分の卑小なイメージなどどうでもいい。それを彼に押しつけるつもりはない。
彼の存在そのものが可能性なのだ。
なにか劇を観に行くたびに、そんな思いにかられて、私のなかの満たされないニーズがとても痛々しくなる。