2014年9月23日火曜日

尹雄大『体の知性を取り戻す』

私が韓氏意拳をはじめ、ハマってつづけているいま、二年目になるが、その最初のきっかけが尹雄大氏の著書『 FLOW』を読んだことだった。
一読してよくわからない部分もあったが(言葉で説明できないことをどうにか説明しようとしているので当然)、興味を持ち、体験講習会に出かけてみたのだ。
いまも体験講習会にはちょくちょく、『FLOW』を読んで興味を持ったという人がやってくる。

韓氏意拳はいまの私にとってなくてはならない大変重要なものになっていて、尹氏には感謝している。

その尹氏が新刊を出すというので、ひと月前から予約注文していたのが、先日届いた。
版元は講談社現代新書。

頭から読みはじめて、とたんに引きこまれた。
私はちょくちょく、小学校に朗読授業に行くが、そのとき教師が子どもたちを統制しようとして使うことば、姿勢、整列強制などにたいして強い違和感を抱くことが多い。
私自身は子どものころ、大人の要求に自分のふるまいを合わせてやりすごすことができる「小ずるい」子どもだったので、学校生活も適当に楽しんでいたが、この本を読んでたしかに私も尹氏が感じていたような違和感を子どものころから感じていたことを思いだすことができる。
それゆえに、いまさらながら韓氏意拳のような自分の身体と真摯に向き合う武術の稽古にハマっているのかもしれない。

尹氏が例にあげているのは「小さく前にならえ!」や「気をつけ! 休め!」「よく考えてものを言いなさい」などと大人からいわれるなかで失われていった「なにか」についての考察だ。
私もときおり例にだす「体育座り」などもそうだろうと思う。
そういった身体教育を受けてきたいまの私たちが、あらためて身体の本来持っている潜在能力(ここでは知性と呼んでいる)を取りもどすには、どうすればいいだろうか、という難度の高い問題について、この本では正面から立ちむかっている。

ところで今朝、私はひさしぶりに派手にすっ転んで、怪我をした。
人の家の玄関先の五段くらいあるコンクリートの階段の三段めくらいから、足をもつれさせて落下してしまったのだ。
膝とスネをコンクリートの角で打ち、とっさに受け身をとった右腕の外側をすりむいてしまった。
それだけではなく、右足首を打撲したらしく、ネンザでないのは幸いだったが、ひどく痛んでいまも歩くのにかなり支障がある。

転んでしまってかんがえたのは、いったい自分はどのような身体の使い方をしていたんだろう、ということだ。
思いだしたことがある。
この家の玄関はコンクリートの階段までゆるやかなスロープになっていて、私はまずそこを登っていたのだった。
雪国の家にはよくある、融雪のための水を流す塩ビのパイプがそこに埋められていて、1センチくらいの出っぱりに軽くつまずいてしまった。
そこにパイプがあることに気づかなかったので、私は帰りはそれに気をつけなきゃ、と頭でかんがえていた。

さて用事が終わり、帰ろうとしたとき、パイプのことを思いだし、つまずかないように気をつけようとかんがえたとき、その瞬間に降りようとしていた階段を踏みはずして、派手に落下してしまったのだ。

かんがえはいつも身体能力発揮の邪魔をする。
このところ痛感していたことを、まさにあらためて痛い思いとともに確認できた。

「体の知性を取り戻す」とひとことでいったところで、それはなかなかに大変なことだ。
尹氏はもちろんそのことを熟知した上で、いくつかの事例についてさまざまな角度から丁寧にことばを重ねることで伝えようとしているのだろう。
私にとっては韓氏意拳のくだりはとくに共感をおぼえるものだったが、韓氏意拳に接したことのない人にはどのように伝わるのだろう。
そういう人の感想を聞いてみたいところだ。