収録をめざさなくても、ひとりひとり練習するための持ち作品を持ってきて、それをみんなで聴くスタイルだった。
いまもそのスタイルはあるが、よりゆるやかな、それぞれが自分のやりたいこと(あるいはやりたくないこと)をやる場になっている。
ところが、いま、ゼミに参加できるゼミ生の数がへっていて、休講になることも多い。
そろそろそのゼミというシステムを見直す時期なのかなあ、なんてことを話していたら、てんちゃんが思いがけないことを話してくれた。
てんちゃんはオーディオブックも読みたいし、ひとりで自由にライブ活動もしたいのだが(実際にそうしている)、げろきょという足場から離れるつもりはない、というのだ。
それは、げろきょという足場を離れると自分が「崩れる」ような気がするから、という。
ちょっと漠然とした言葉だが、それを聞いて私にはピンと来るものがあった。
ゼミ生が少なくなり、ゼミ自体も休講が多くなってきたとき、私はゼミというシステムを見直すことをかんがえながら、その先に見え隠れする現代朗読協会そのものを解散してしまおうか、という選択肢が自分のなかにあることに気づいていた。
オーディオブックを収録する、という実利的なものには参加者があるのに、現代朗読の表現を深めるためのゼミそのものには参加者が集まらない、現代朗読を学んである程度自由な朗読表現ができるようになった人たちは、残らずに自立して離れていってしまう。
そのことについて寂しさをおぼえ、また無力感にとらわれてもやもやしていた。
てんちゃんの話で、私自身がげろきょという場の必要性を痛感した。
てんちゃん同様、私自身、げろきょという足場がなくなると「崩れてしまう」ような気がする。
私も基本的に、ものを書いたり、ピアノを弾いたり、ピンで活動する人間だが、いまはげろきょという足場があることでピンの活動に一種の強靭な「芯」を持てている。
げろきょのみんなとのつながりがあることで、ピンでの活動にも不安をおぼえず立ちむかっていけているのかもしれない。
この場と、ここにいつづけてくれているみんなとのつながりは、私にとって死守すべきといってもいい大切なものなのかもしれない。
そんなことを話したり確認したりして、元気になったあとは、オーディオブックの収録実習と分析に取りくむことができた。
実際に収録し、Adobe Audition の画面を見ながら分析をし、なにが足りないか、なにが必要なのかについて、分析的な実証をして、今後の役に立ててもらう実習をおこなった。
オーディオブックや朗読表現のつぶさな実践的分析・検証について、いまの私ほどノウハウを蓄積している者はいないという自負がある。
しかし、これは墓場まで持っていってもしかたがない。
だれかに伝えておきたい、というのが、いまの私の切実なニーズである。
出し惜しみは一切しないので、だれか私の経験と知識をすべて受け継いでくれるという人がいたら、無条件で歓迎したい。
だれかいませんか〜?
※現代朗読ゼミに体験参加ができます。
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