2012年7月24日火曜日

お金がないと参加できないものはなにひとつない

photo credit: Mukumbura via photo pin

現代朗読協会ではお金の扱い方についてひとつの明確な方針を持っている。
これは共感的コミュニケーションから来た考え方だ。

「お金がない、という理由で参加できない講座やゼミはなにひとつない」
というものだ。
現代朗読協会の活動の中心は「ゼミ」と呼ばれる一種の表現研究会のような場なのだが、そこにはいちおう、規定の参加料金が決められている。
そしてほとんどの参加者は規定の金額を払ってくれている。
そのお金は現代朗読協会が活動するための経費、場の維持費、継続のための費用として使われる。
そこには利潤は含まれない。
利潤はないので、蓄財もされない。

蓄財がないと将来が不安ではないのか、と考える人もいるかもしれない。
が、私たちは蓄財という形で将来にそなえようとは考えない。
物質ではなく人的なもの、参加者が主体的に支えてくれることを継続することで、成長する未来を確保しようと努力する。

もっとも、こういう考え方を示すと、参加費を「値切ろう」とする人がかならず現れる。
「自分はいま経済的に苦しいので、参加費を半額にしてほしい」
といってくる。
その人が悪いのではない。
私たち全員がそのような経済システムのまっただなかにいて、効率主義、経済至上主義の考え方を徹底的に刷りこまれているのだ。
そこから逃れることはとても難しい。

私たちは最小限の労力や金額でなるべく多くの利益や物品を得ようとする。
そのように教育されつづけてきたし、いまもそのような考え方のなかに身をおいている。
モノやサービスは、それがおなじ質ならば安ければ安いほどいい、と思っている。
しかし、本当にそうだろうか。

おなじ質のモノが売られていたとき、私たちは反射的に安いほうを手に取るが、そのことによってだれかが犠牲を払っているとはなかなか考えがおよばない。
ひょっとしておなじ質のものではあるけれど、高い値段のほうを買うことによってだれかの命が救われることだってあるかもしれない、という想像はなかなかしにくい。
しかし実際にそのようなことがある。

話がそれた。
ゼミの参加費にしても、
「いくらでもいいですよ。あなたが無理なく継続的に払える額を自分で決めてくれていいんですよ」
というと、反射的に安くしたい、と思うのは現代社会に生きているすべての人ならまったく不自然なことではない。
しかし、その反射をやめたいし、やめてもらいたいと考えている。

「お金がないけど参加したい」
という人がいる一方で、
「参加したいけどお金がない」
という人がいる。
これ、おなじことだと思いますか?
私はまったく違うマインドがそこにあると考えている。

前者はとにかく「参加したい」のだ。
参加するために、お金というものが必要らしいが、あいにく持っていない。
そういう人に対しては、私は「お金以外であなたが貢献できることはありますか?」と聞くことができる。
後者に対しては「ああそうですか。それは残念ですね」と答えるしかない。

前者に対しては、私はとにかく、なぜ参加したいのか、ゼミに参加することがあなたにとってどのような必要性があるのか、そのことを知りたいと思う。
その気持ちにつながっていきたいと思う。
その気持ちにつながれたとき、私たちとその人のあいだにはある共感の質が生まれ、必ずしも貢献が金銭でなくても参加してもらえるのだという理解も生まれる。

私がもっとも寂しく感じるのは、
「お金がなくなったのでもう参加できません」
という言葉をゼミ生から聞くときだ。
そんな理由で参加をとりやめることができるくらい、私とあなたのつながりは細かったのかと知らされて、とてもつらく、悲しくなる。
ときにそのことで自分を責めてしまうこともある。