2012年7月25日水曜日

表現の三つのフェーズ

photo credit: seven_resist via photo pin

表現行為には三つのフェーズ(現象面)があると私はかんがえている。
ひとつめのフェーズは表現行為の原初衝動であり、人の最深部にある。
純粋に表現したい、自分を表したい、言葉にできなくてもとにかく踊ったり歌ったり身体が動いてしまう、その衝動だ。

幼い子どもを観察すると、だれにでもその衝動があることがよくわかる。
子どもはだれに頼まれてもいないのに、勝手に歌をうたったり絵をかいたり、踊ったり走ったり、なにか作ったりする。
大まじめで自分の世界にはいりこんでやっている。
自分が楽しんでいるということにすら気づかないほど、忘我の境地で集中している。

子どもがなぜそんなことをするのかというと、人の子どもでなくても動物の子ども——たとえば犬や猫、鳥もそうだが——はみずからがここに存在していることを訴えるためだ。
とくに子どもは大人や世間の助けなしには生きていけない存在なので、自分の存在を懸命にアピールする
アピールすることを喜ばしいと思うように、遺伝子にプログラムされている。
そのようにプログラムされた遺伝子だけが淘汰の過程で生き残ってきた、といいかえてもいいかもしれない。

それらのことを表現の第一のフェーズ「純粋表現」と呼ぶ。


つぎに、子どもがそうやっていると、だれかが——たとえばお母さんが「あら、ひろちゃん、上手ね」と絵や歌をほめたりする。
子どもはそのとき、自分が表現すると人が喜ぶことがある、ということに気づく。
そしてしだいに純粋表現ではなく、対人表現へと意識を向けはじめる。

この段階が表現の第二のフェーズ「コミュニケーション表現」だ。
人は社会的動物なので、だれかと「つながり」を持って生きることを本能的に重要視している。
だれかとのつながりを断たれると、死の衝動にかられるほどの孤独感にさいなまれる。
つながりを断たれた人は、こころの病におちいったり、ねじれたメッセージとしての犯罪行為やいじめなどに走ったりする。

つながりの質を高めるための手段として、人は表現行為を使う。
表現は芸術表現だけではない。
スポーツや料理などの家事や、仕事やゲームですら、つながりの質を確保するためにおこなっている。
コミュニケーションとしての表現にほかならない。
だれかとつながることの純粋な喜びをもっておこなう表現、それが「コミュニケーション表現」だ。


第三のフェーズは「社会規定的表現」とでもいうものだ。
社会的に規定された枠組みのなかでおこなわれる表現。
たとえば、お金を稼ぐためにおこなわれる表現。
ライブや公演、あるいは絵を売る、売文する、といったことで、これはさまざまな制約や規定が表現者に課されてくる。

子どもがお母さんに絵をほめられると、やがてほめられたいがために絵を描くようになる。
つまり、上手に描こうとしたり、どういう絵だとほめられやすいか計算するようになる。
自分の外側に表現する喜びの基準を置くようになる。

また子どもの純粋表現は、成長するにしたがって「静かにしなさい」「じっとしてなさい」など、社会的に都合の悪い行為をたしなめられたりしつけられたりして、しだいに純粋に表現することをためらったり、自制したりするようになる。
つまり、大人になっていく。

最初は純粋な喜びをもってやっていた第一・第二フェーズの表現も、表現行為を価値判断される、金銭などに換算される、人と優劣を比較される、批判される、といった外部的・社会的評価にさらされるようになると、それはもう苦しみをともなうものになってくる。

すくなくとも私は、世間から評価されるために表現をやっているわけではない。
社会から自分自身を規定されたくなどない。
社会に規定されたり、評価されるというのは、自分を商品化することと同義だ。

私は、私の人生は、だれかの商品ではない。
私自身のものだ。

私は自分の純粋な表現欲求や、つながりを求める気持ちや、だれかに貢献したいニーズにしたがって行為するのであって、だれかに規定されて動くのではない。
というより、規定されて動きたくはない。
だれかに規定されないために表現行為をおこなっている、ともいえる。


すべての人はそれぞれが大切にされる権利を持っているものであり、だれかがだれかを支配したり規定したりするものではない。
第三のフェーズを注意深く、卵の殻をむくように、埃を払いおとすように、私のまわりから取りのぞいていきたい。