2013年1月10日木曜日

新年初ゼミの日

今日は朝ゼミ、昼ゼミ、夜ゼミと、げろきょの初ゼミの日だった。正月の報告やら、今年の抱負やら、いろいろなことを掘りごたつを囲んで語る。

去年は暮れぎりぎりまで年末キッズ公演の稽古があったので、羽根木の家の冬恒例である掘りごたつを出せなかった(稽古スペース確保のため)。
それで、掘りごたつを作るのが年明けにずれこんだ。

例年、冬になると、掘りごたつをかこんでぬくぬくと朗読ゼミをやるのが、げろきょの冬の風物詩となっていたのだが、それが今日実現した。
やばいのだ、これが。
全然やる気が出ない(笑)。
しかし、おたがいに大切にしていることを確認しあったり、抱負をのべたり、つながりを深めることができた。
一年の最初にこれができたことが、とても有意義だとかんがえる。

夜ゼミでは1月31日夜にやるネットライブの演目を、てんちゃんとみぞれちゃんに披露してもらう。
今年は羽根木の家から現代朗読のネットライブをどんどん送出していきたいし、ゼミ生のみんなにも気軽に参加してもらって腕をみがいてもらいたい。

あさっては今年最初の現代朗読基礎講座と体験講座の2連チャン。
夜はテキスト表現ゼミ。

iPhoneカメラ用マクロ&魚眼レンズアダプタ「olloclip」

これまでにもいくつか試したことがあるのだが、iPhone用レンズアダプタで「これは」というのを見つけたので、紹介する。
この「olloclip」は iPhone 4/4S 用と iPhone 5 用のものがそれぞれある。
いずれも本体に直接カチっと装着するもので、接着剤とか粘着シートのようなものでくっつける必要がなく、そこがわずらわしくなくていい。
そのかわり、バンパーや保護ケースを使っていると使えないことが多いだろう。
私はすっぴんで使っているので、そのままカチっとはめてそのまんま使えるので便利だ。

3種のレンズがひとつのコンパクトな本体で使える。

・ワイド
・魚眼
・マクロ

マクロレンズはスクリュー式にはめこまれているワイドレンズをはずすことで現れる。
魚眼はワイドレンズの反対側についているので、本体をひっくり返して使う。
コンパクトなので付属のちいさなポシェットに入れて持ち運べるし、財布などに入れておける。
カバンに適当に放りこんでしまうと、行方不明になってしまうほど小さい。

さて、どんな感じに写るのか。
まずはマクロレンズ。
MacBookのcommandキーを接写してみた。
倍率は10倍くらい。
かなりシャープだ。
植物の写真などに威力を発揮しそう。

つぎにワイドレンズ。
これまでiPhoneカメラの画角に収めきれなかった広い風景や室内なども、かなり広く撮れそうだ。

最後に魚眼レンズ。
相当癖のある仕上がりだが、これはこれでおもしろい。
ライブハウス内の全景など、私はけっこう重宝しそうなレンズだ。

参考までに、ノーマルレンズで撮ったおなじ風景。

というわけで、このクリップアダプタは必携の一品になっている。











音読日めくり1月10日:大杉栄「鎖工場」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、大杉栄「鎖工場」です。

今日のフォトは晴れた日の新雪の野山です。
こういう日の翌朝は、雪の表面がパンパンに凍って、深雪でもその上を歩いて渡っていけるのです。

2013年1月9日水曜日

体罰について

photo credit: marsmet461 via photopincc

いつもいっていることだが、以下はあくまで私見である。
広いこころでお読みいただきたい。
反論がほしいわけではないので、あしからず。


おそらく体罰が原因で生徒が自殺した大阪の事件が問題になっている。
まことにいたましいことであり、悲しみを禁じえない。
この学校では日常的に体罰がおこなわれていただろうことは想像に難くないし、この学校にかぎらず全国でも体罰がまだまだ「指導」という名のもとに黙認されている学校が多いといわれている。
どのくらい多いかは不明だが、非公式な数字では年間数十人にものぼる生徒が体罰を苦に自殺しているともいう。
これが事実なら本当におそろしいことだ。

体罰を肯定する人たちはまだまだいる。
私の世代(50代)にも多いという実感がある。
いずれの人も「条件付き」での体罰を容認している。
そういう人たちの論調は「愛のある体罰なら」とか「体罰でしか伝えられないこともある」といったものに集約される。

私自身、学校教育を受けていたときには、多くの体罰を受けてきた。
小学一年か二年のとき、理科の実験のときに、アルコールランプに火をつけるのを教師が許可する前に勝手にやってしまった、危険だし、集団行動を乱す許せない行動だ、ということで、平手打ちをくらったことがある。
ちょうどそのときは授業参観で、親がいる前だった。
教師にはおそらく、見せしめ的な意識もあったのではないかと思うが、そのときの屈辱はいまになってもはっきりと思いだすことができる。

もちろん悪いのは私の行動だったわけだし、親からも「おまえが悪い」とはっきり宣告されたが、その行動をいさめるのに「平手打ち」という「制裁」をもっておこなうのは、コミュニケーションを超えた「暴力」そのものではないかと、いまだに感じている。
私があのとき平手打ちをくらったことで、私のなかになにか発展的なものが生まれたかというと、そんなことはまったくない。
むしろ、集団行動を乱すことによって制裁される、という権力側にたいする憎しみが強く植え付けられることになった。
以来、それだけが原因ではないとは思うが、私は集団行動が極端に苦手になり、それはいまだにつづいている。

それを皮切りに、数えられないほどの体罰を教師、親、つまり子どもからすれば自分より力のある者から受けてきた。
逐一書けば、たぶん小冊子一冊くらいになるだろう。
そういう時代だったのだ。
1960年代から70年代のなかごろにかけて。
なかにはもっとひどい体罰もあったけれど、私が自殺せずにすんだのは、いささか乱暴なところもある両親ではあったけれど彼らなりにたっぷりと愛情を注いでくれた家庭という逃げ場があったからかもしれない。
自然という広大な遊び場もあったし。

自分の実感からいって、体罰によって得るものはなにもなかった。
大人になっても体罰を肯定するのは、ある程度「勝ち組」の側に踏みとどまれた者だけだ。
たとえば、スポーツの世界においては、体罰を受けてもなんとか勝ちのこり、ある程度の成功体験をした人間が、体罰をあまり否定的にとらえず、自分の成功をむしろ体罰を肯定することで傷をおおいかくそうとするのかもしれない。
体罰によって深い傷を負い、「負け組」の側に追いおとされていった者の声は、ほとんど表に出てくることはない。


体罰はコミュニケーションの一種だという者がいる。
ヒトも動物であり、コミュニケーションはことばのみにあらず、動物の親子を見れば体罰が必要なことはわかる、という者もいる。
ライオンが子どもを成長させるために崖から突き落とす、というが、もちろんこれはとんでもない嘘だ。
人が作りだした虚構である。
ライオンは崖から突き落とすどころか、子どもが崖から落ちれば全力で助けに行くだろう。

子猫の出産と育児に立ちあった人ならわかるだろうが、親猫は子猫の行動をいさめるとき、その鼻面そっと手ではたく。
その行動はとてもやさしく、見ていて思わず笑みが出てしまう。
猫がことばを使えれば、どれほどやさしい口調で子猫をいさめるだろうかと想像する。

近親交配を避けるという目的で、成長した子を威嚇し、暴力的に追いはらったりすることはある。
ヒトの場合もこの禁忌がもちろん働いているが、社会的しきたりを作ることで、暴力に訴えずにすむような制度設計をしている。
たとえば婚姻制度もそのしくみのひとつだ。

このように、ヒトは暴力を避けるための制度設計をたくみに作ってきた社会性を持った動物なのだ。
それが、帝国主義、全体主義、資本主義といった、社会的本能をこえる制御不能のシステムをみずから生み出してしまったことで、大量破壊、大量殺戮という究極の暴力に突きすすんでしまった。
戦争のための道具は日常社会においても暴力を常駐させ、報復的手法によるしかない「法治国家」というものを、なかば上意下達的に無理やり共有しなければならなくなった。


教育に暴力をけっして持ちこんではならない。
それは私の確信だ。
私には息子がひとりいるが、ただの一度も暴力をふるったことはない。
しかし、物理的暴力はふるったことはないが、言葉の暴力や暴力的態度を使わなかったことがないかというと、いくつか後悔はある。
どうして子育て中の時期に共感的な考え方を身につけておけなかったのか。

教育は力(物理的な意味だけではない)でまさっている者が、おとっている者に共感的に接することで、成長をうながし、よりすぐれた者になりたいと自立的に学びを起こさせる場であることが理想だ。
強い者は弱いものに決してパワーオーバーであってはならないのだ。
弱いものは強いものに全的に受け入れられることで、自分もそのような人間になりたいと願い、自立的に学んでいく。

暴力をふるう教師は、それが言葉であれ、物理的な暴力であれ、自分が力のある立場にいるということを(無意識に)確認するためにやっている。
つまり、自分に自信がない弱いものが暴力をふるうのだ。
本当に強いものは、弱いものに暴力をふるうことなどしない。
そんな必要はない。
暴力をふるう者はようするに教師失格ということなのだが、となるとどのような教師教育(教師を育てるための教育)が必要であるのかは、自明のことだろう。
現在の高等教育においてはまったく期待できないし、ましてや文科省に任せておけるようなことでもない。


教育と暴力の問題になると、つい熱くなってしまい、論旨が乱れてしまったことをおわびする。
いずれにしても、すべての子どもが暴力(制度的貧困といいかえてもいい)におびやかされることなく、のびのびと安心して成長できる場としての学校を享受できるように、一日も社会制度と大人たちの意識が変わってほしいと思う。

機嫌よくいることの大切さ

photo credit: pixel pro photography south africa via photopincc

機嫌がいい/悪いとはどういうことだろうか。
自分はどういうとき機嫌がよくて、どういうとき機嫌が悪くなるのだろうか。

それを検証する前に、まず、機嫌がよくないとどんなことが起こるのかかんがえてみる。
というのも、自分が機嫌がいい/悪い以前に、機嫌の悪い人間となにかしようとするとき、いろいろ支障があることが多いからだ。
だれもがそういう体験を持っているだろう。

たとえば、いっしょに仕事をする相手が機嫌が悪そうにしているとき、こちらはどうするだろうか。
まず、なぜ相手が機嫌が悪いのか、知ろうとする。
知ろうとしないまでも、とても気になる。
それ以上相手の機嫌が悪くならないように気を使ってしまう。
ものをたのむとき、相手の顔色をうかがってしまう。
心置きないものいいができず、仕事のコミュニケーションに支障が出てしまう。
つまり、仕事がはかどらない。

見かけだけでなく、実際に不機嫌な相手だと、支障はもっと顕著になる。
「○○さん、これお願いしてもいいですか?」
「えー? これ、おれがやんの? めんどくせえけど、しゃあねえな」
みたいな反応が返ってくる相手には、つぎからものをストレートに頼みにくくなる。

仕事でなくても、家庭や友だち付き合いや、プライベートな集まりなどでも、不機嫌な人がひとりかふたりいるだけでコミュニティの温度が低くなり、ものごとの進行がぎくしゃくとうまくいかなくなる。
これが自分自身であることに、人はしばしば気づかない。

自分が不機嫌になってしまっているとき、どれだけその場の空気を冷たくしているか、ものごとの進行をさまたげているかについて、しばしば気づかないことがある。
なぜなら、自分は不機嫌であることに一生懸命になっているからだ。


「不機嫌であることに一生懸命になる」ということはどういうことだろうか。
それはつまり、「だれかに自分のことをわかってもらいたい」という無意識のサインを懸命に出しつづけている、ということだ。
自分自身、そのことに気づいてすらいないことが多いのだが。

自分が不機嫌であることをだれかにわかってもらいたい、なにかつらいことがあって気分が沈んでいる自分をわかってもらい、尊重してもらいたい、不機嫌を装っている人間はそういうサインを出しつづけているといっていい。

たとえば、あなたはどんなときに不機嫌になるだろうか。
だれかに約束を守ってもらえなかった?
家族から軽んじられた?
仕事が思ってようにはかどらない?
政治家がバカばかりだと感じている?
お金がない?

あなたが不機嫌になっているのは、あなたが大切にしていることが損なわれたからだ。
そしてそれは「不機嫌になること」では決して解決しない。


逆説的ないいかただが、あなたが不機嫌になった原因を取り除き、それを解決して機嫌よくなるためには、まず「機嫌よくならなければならない」のだ。
機嫌のいい人間にしか他人はつながってくれず、問題解決の手を貸してくれず、またとらわれている不機嫌思考からのがれることもできない。
あなたがどんな状況であれ機嫌よくふるまっていれば、人はこころよくあなたに手を貸してくれるだろうし、悩みを聞いてくれたり、つながりをもってくれるだろう。
不機嫌なことがあったとき、不機嫌になってしまうのは戦略的にもっとも非効果的なのである。

では、現実問題として、どうすればいつも機嫌よくいられるのか。
これは一見、むずかしい問題のように思える。
しかし、答えは単純である。
「マインドフルでいること」
これが機嫌よくいるためのシンプルな回答だ。

マインドフルでいるということは、「いまここ」の自分自身に気づきつづけるということだ。
いま、この瞬間、自分の呼吸、身体、感じていることを感じつづけ、自分と世界のつながりに気づきつづける。
するとおのずと生きていることそのものの喜びがわいてくるだろう。

あなたを不機嫌にさせた仕事上のトラブルも、友だちからいわれた不快なことばも、いまこの瞬間ではなく過去の記憶のなかにあるものだ。
また、まだ起こってもいないことにたいする漠然とした不安も、頭の中で想像しているだけのもので、架空のものだ。
それをいまくよくよしていてもなんの解決にもならない。
いまこの瞬間にあなたにできるのは、いきいきと自分自身でありつづけ、いつでも最高のパフォーマンスでものごとに対処できるように全的に気づきつづけること。
それはおのずとあなたの機嫌をよくし、にこにこと明るいインターフェースをあなたにもたらすことだろう。

毎日、朝起きたら、マインドフルネスをこころがけ、まずは機嫌よく一日をスタートできるかどうか。
それがあなたの時間のクオリティを決定づける。
今日も一日、私とあなたがマインドフルにすごせますように。

音読日めくり1月9日:海野十三「人造人間事件」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、海野十三「人造人間事件」です。

今日のフォトは雪の里山です。
雪国の人にとって雪は戦いの相手ですが、新雪の風景が美しいことは確かです。

2013年1月8日火曜日

医者なし、薬なしで風邪は治す

思いかえしてみれば数日前からなんと変な感じだった。
そう暑くもないのに、ちょっと動いただけでやたらと汗をかいたり、なんとなくだるかったり。
そういう身体からのサインを、私は無視するような習慣が身についてしまっている。
音読療法を指導しているのに、自分の身体のこととなるとまるで繊細な感覚を持てずにいる。
これはまずいでしょう。

というようなことをかんがえつつ、しかし音読療法をやっていたおかげで免疫力が強くなっているという実感がある。
風邪を引いてもすぐに回復する。
ほんとうは風邪を引かないほうがいいんだけどね。


昨日は下北沢でライブがあって、初顔合わせのメンバーだったので張り切っていたのだが、昼ごろからどうも調子がわるい。
身体がだるく、筋肉やふしぶしに疼痛がある。
正月の雪かきの後遺症ではないかといわれたが、それとはあきらかにちがう。

ライブの時間まで横になることにした。
本当はきちんと布団に横になればよかったのだろうが、ついこたつにもぐりこんで仮眠。
こういうのもよくないね。

午後6時にライブ会場入り。
調子が悪いなりに、ライブセッションが始まるとそんなことは忘れて、集中して演奏。
お客さんも来てくれて、楽しくお話させていただく。
ライブが終わったら、かなり熱っぽい。
38度くらいあるかもしれない。
風邪ではなくインフルエンザだったら困るなあ、と思いながら、インフルエンザではない感じがする。

解散して家にもどり、そのまま布団をしいて、すぐに寝た。
部屋にはガスファンヒーターがあるので、最低温度(16度)の設定してつけっぱなしにした。
ガスは湿度を保てるのだ。
その証拠に、ガスファンヒーターをつけておくと、トイレの貯水槽の下が結露でびしょぬれになる。

夜中に何度か起きて水分補給。
薬は絶対に飲まない。
薬で熱を押さえたりすると風邪は長引くからだ。

風邪をひくと心配して「医者に行け」といってもらえることがあるけれど、わるいが私はその忠告には決してしたがわない。
重篤な病気なら別だけどね。
とにかく、出たい熱は出させてやって、身体の自然な治癒力を信頼して任せる。

朝方にはすっかり熱っぽい感じはなくなっていた。
が、まだ少しじとじとと汗っぽく、体温調整が完全にもとにもどっていない感じ。

おかゆを作って食べる。
白いおかゆに、塩分補給をかねて梅干を乗せて。
これがうまいのなんのって。
しかし、食べすぎは禁止。
免疫系が一生懸命働いているあいだは、過食は禁止。
消化器系にエネルギーを奪われないように注意する。
おなかがすき加減くらいがちょうどいい。
子どものころは無理矢理にでも食べさせられたものだが。

というわけで、日中は書き物仕事をしたり、疲れたらすぐに横になったりして、安静にすごす。
夕方のいまはほぼ完治した感じがある。
明日にはすっかり元通りになっているだろう。
徐々に食事を元にもどし、身体を動かしていくことにしよう。

下北沢〈APOLLO〉での新春即興ライブが終わった

2013年1月7日。今年最初のライブは下北沢〈APOLLO〉。
メンバーは徳久ウイリアム、臼井康浩、水城ゆう、そして朗読ゲストに野々宮卯妙。

臼井さんは名古屋在住の即興演奏家で、一度やりたいと思っていて、徳久くんが知り合いでときどき一緒にやっているということがわかったので、お願いして今回のライブをセッティングしてもらった。
〈APOLLO〉も私は初めて。

午後6時、会場入り。
〈APOLLO〉はなかなか雰囲気のあるジャズバーで、入ったところがカウンター、奥がライブスペースになっている。
広くはないが、朗読やミニライブにはちょうどいい。
私のように集客力がない人間には使いやすい。

店内にはたくさんの種類のお酒と、壁面に古い楽器がぶらさげてあったり、十字架を背負ったキリストがいたり、おもしろいのだ。
ピアノはローランドのデジタル。


すでに臼井さんが来られていて、初対面のご挨拶。
私は風邪をひきかけてちょっと発熱していて、調子はいまいちだったのだが、ライブに支障が出るほどではなかった。

徳久くんも間もなくやってきて、マイクなどのセッティング。
私は例によってMacBookを持ちこんで、デジタルピアノの音とバーチャル音源をミックスして出すことにした。
ギターの臼井さん、ヴォイスの徳久くん、朗読の野々宮なので、セッティングもそう時間はかからない。


7時半すぎ、みぞれちゃんと瀬戸さんが来てくれた。
そのあともゼミ生の植森さんや、講座生の松田くん、富田さん、珠央さんらが来てくれたし、ほかにもお客さんが3、4人はいって、客席がガラガラで寂しいという状態ではなくなってうれしかった。

8時すぎ、ファーストステージがスタート。
まず私と臼井さんのデュオからはいる。
リハーサルもなかったので、これがまったくの初音合わせ。
どんな音になるのか、わくわくしながら始まった。

これがギターなのか、どうやって音を出しているのか、というノイジーなサウンドからスタートした。
私はそれをしばらく聴いてから、おもむくままにピアノで入っていった。

フリーインプロではがっつり「会話」をしようとする人と、互いに聴き合いながら付かず離れず全体のサウンドを作ろうとする人がいるが(お互いにまったく聴かない人もいる)、臼井さんはどうやら後者のようで、私はからんだり離れたりしながら初めてのセッションを楽しんでいた。

そこへ徳久くんが、これが人の声かよ、という奇妙な音でからんできて、さらにわけのわからないサウンドになっていく。
ピアノはアコースティックピアノの内部演奏プリペアドでないかぎり、とっぴょうしもない音は出せないので、ぶっとびサウンドのふたりにどうからんでいくかは難しいところだが、それがまたおもしろい。

野々宮も朗読で加わった。
カオスっぷりがすばらしい。
お客さんにはどのように聴こえていたんだろう。
今度みぞれちゃんたちに訊いてみなければ。


ファーストの後半はデュオ演奏をやることになって、その組み合わせをくじびきで決める。
野々宮と徳久くん、野々宮と臼井さん、ふたたび野々宮と臼井さん、という組み合わせで演奏がおこなわれた。
漱石の「草枕」と、私が書いた「彼は眠らない」は、野々宮=臼井コンビでおこなわれたのだが、どちらもスリリングでおもしろく、非常にクオリティの高いパフォーマンスだと感じた。

セカンドステージでは全員によるフリーセッション。
なにも決めずに「よーいどん」ではいって、どんどん展開していく。
思ったより静かなサウンドが展開していき、最後はながいながい沈黙で終わった。
ここちよい沈黙だった。
「沈黙の朗読」の最後の沈黙の時間を思いだした。


かんがえてみれば、徳久くんともちゃんとライブをやったのはこれが初めてかもしれない。
この4人でまたやれる機会があるといいなあ。
そして名古屋ではぜひ臼井さんとやりたいものだ。

音読日めくり1月8日:内田魯庵「駆逐されんとする文人」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、内田魯庵「駆逐されんとする文人」です。

今日のフォトは空港高速バスの窓から見えた雪景色の里山です。
今年は寒波の襲来が早く、日本海側はかなりの大雪に見舞われています。

2013年1月7日月曜日

下北沢APOLLOでの新春即興演奏withロードクライブのお知らせ

2013年新春早々ではありますが、下北沢のジャズハウス〈APOLLO〉にて、3人の即興演奏家による新春即興演奏を、朗読のゲストもまじえておこないます。
この3人は今回が初顔合わせとなります。
どんな展開になるのか、どんな音が生まれるのか、私も楽しみです。

出演者音楽陣は臼井康浩(g)、徳久ウイリアム(voice)、水城ゆう(p,key)の3人、朗読は現代朗読の野々宮卯妙です。

◎日時 2013年1月7日(水)19:30開場/20:00開演
◎場所 下北沢〈APOLLO〉
◎料金 500円+フリーチャージ(投げ銭)

以下に出演者の簡単なプロフィールを紹介しておきます。

臼井康浩(guitar player,composer)
名古屋在住で国内外で即興演奏を中心に越ジャンルで活動するギタリスト。様々なジャンルでの活動を経て90年半ばより即興演奏を中心に年間100本前後のライブを行う。渋さ知らズオーケストラ、藤井郷子オーケストラ名古屋、OKIDOKI、ヒゴヒロシMAJIKA~NAHARU、元花電車のKeiとのギターDuo Flyline、pikaia pandeiro special、東海道スモッグブラス、ryorchestra等に参加。2003年7月ニューヨークにてエリオットシャープとDUOのレコーディング。2004.11ネッドローゼンバーグと共演。北京、ニューヨーク、ソウル、パリ、ドイツ他海外からのオファーも多い。身体表現や書家、映像とのコラボレーションなど、ジャンルの垣根を越えた意欲的な活動を行っている。近年は即興演奏する際の考え方であるインプロ思考法という独自のアプローチも発信している。
ホームページ http://www.usui-yasuhiro.com

徳久ウイリアム
ブラジル出身。声の拡張&新たな可能性を目指すボーカリスト。ホーメイなどの民族音楽的発声から、デス声、独自の「ノイズ声」まで、特殊な発声法のスペシャリスト。元「倍音S」。現在、TaikuhJikang、CharlieWilliams、P口琴ラボ、などのバンド活動をはじめ、即興演奏、前衛からポップスまで、年約120本のライブをこなす。また、「呼吸と声と身体」をテーマに、「クラヤミノtones」ほか、レクチャー、ワークショップ、個人レッスンやイベント企画も行なう。音源DLサイトOtotoyのスクール「オトトイの学校」での1企画「快楽ボイストレーニング・ゼミ」は心理学とボイトレを合わせたユニークな内容で好評を得ている。
twitter:tokuhisawilliam
Facebook http://www.facebook.com/william.tokuhisa
HP http://william.air-nifty.com
メルマガ http://william.boo.jp/mm3.html』

野々宮卯妙(ののみや・うたえ)
現代朗読家。バロック朗読家とも。代表作に「特殊相対性の女」(2010年愛知県芸術劇場小ホールにて上演)、「初恋」(2013年2月キッド・アイラック・アート・ホールにて上演予定)ほか。現代朗読協会のライブ・公演に年間数十回出演の他、フリージャズの板倉克行、梅津和時、森順治、小山彰太、翠川敬基らミュージシャンとのセッションを重ね、新宿ピットイン、下北沢レディージェーン、入谷なってるハウス、中野スイートレイン等に出演。2011年からキッド・アイラック・アート・ホール地下のブックカフェ槐多にて水城ゆうの即興演奏とのセッションライブ「槐多朗読」シリーズを連続上演中。慶應義塾大学法学部卒。現代朗読の指導のほか、音読療法士として指導・セッションも行っている。

Kindleストアで『原発破壊』1〜4が発売になった

電子書籍のデータ形式のひとつePub3での配信です。iPhoneなどのスマートフォン、iPadなどのタブレットでは、ePub3を読めるアプリで読めます。
私はずばりKindleというアプリで読んでます。
まずはアマゾンでKindleの設定をします。

アマゾンストアにログインして「アカウントサービス」に入ります。
右のほうに「Kindleサポート」というのがあります。
そのヘルプに使い方の詳しい説明が書いてありますが、すっとばして「My Kindle」というボタンから直接自分のKindle端末もしくはアプリの設定ができます。

設定が終わったら、通常の紙の本を買うように、購入ボタンを押して決済。
すると自動的に書籍データが端末に送りこまれます。
最初に読むときだけダウンロードにすこし時間がかかるかもしれません。
買ってすぐに読めるし、かさばらないので端末内に何百冊も本を持ちあるけるのはいいですね。


音読日めくり1月7日:伊藤左千夫「河口湖」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、伊藤左千夫「河口湖」です。

今日のフォトは元旦の羽田空港から見た空です。
放射状の不思議な雲がパッと広がっていました。

2013年1月6日日曜日

我々は無意識に相手を責める言葉を使っている

photo credit: Έλενα Λαγαρία via photopincc

なにか共同で仕事をしている、いっしょになにかを作っている、いっしょに生活している、といったシチュエーションのとき、相手が自分の思うように動いてくれないことはしょっちゅうある。期待にそぐわない行動を相手がしてしまったとき、ついそれを責める言葉を使ってしまうことがある。
そしてそれはなんの解決にもならないばかりか、関係性を悪化させることにしかならない。


たとえば、いっしょに生活していて、洗い物の役割分担を決めているようなとき。
今日はあなたの分担ではなく、パートナーの分担のはずだった。
あなたは仕事で、パートナーは休日という日だ。
ところが、あなたが仕事から帰ってみると、パートナーは洗い物を放置してゴロゴロとすごしている。
そんなとき、あなたはなんていうだろうか。

「なんで洗い物してくれなかったの? 時間がなかったわけじゃないでしょ?」
これは相手を責めることばだ。
自分は一日働いて疲れて帰ってきた。
ところが、仕事がなかったパートナーは自分の分担であるはずの洗い物を片付けていない。
自分の分担であるはずの簡単な仕事を片付けてもくれなかった。
自分の楽ばかりえらんでいるように見える。
思いやりを感じられない。

そんなことを感じてパートナーに腹が立ち、つい責める言葉をつかってしまう。
しかし、それでなにが解決するだろうか。
相手はどう答えるだろうか。
「おれだって疲れてるんだよ。やりたくないわけじゃない。いまからやろうと思ってたんだよ」
ふたりの関係は険悪になってしまう。


こういったやりとりはごく日常的なもので、多くの人が身におぼえのあることだろう。
では、こういうとき、どうすればいいだろうか。
共感的コミュニケーションを使ってみよう。

共感的コミュニケーションでは、まず自分の気持ちを丁寧にあつかう。
この順番をまちがえないようにしたい。
まずは自分、それから相手。

洗い物が片付いていない状態を見て、とてもがっかりする。
それは自分にどういう必要があるからだろうか。
パートナーから思いやりをもって接してもらうことが必要だから?
ふたりの決めごと(家事の分担)をお互いに守ることで生活の快適さと持続性を大切にしたいから?

それがうまくいっていなかったことでがっかりしている自分を、まずは認めることが大切だ。
自分の必要性と大切にしていることが満たされなくてがっかりしている自分を、まずは「悼(いた)む」ことだ。
自分はこれこれこういうことが必要だったのね、それが満たされなくてがっかりしているのね、と。
ゆっくりと呼吸して、「いまここ」の自分の感情を客観的に見ることで、すこしは落ちついてくるのを感じるだろう。

すこし落ちついたら、つぎに相手の必要性を想像してみる。
彼だってこちらを怒らせたいわけではない。
洗い物をやらなきゃと思っていながら、なんらかの理由でいままでできていなかったのかもしれない。
彼の必要性は?

完全な休息が必要だった?
洗い物のことすら忘れ、仕事の疲れを取るために完全に気楽にすごしている時間が大切だった?

実際に相手にその推測を質問してみる。
その際、こちらは相手がなにを必要としているのか、なにを大切にしているのか、ということについて、興味を持つ。
興味は好奇心といいかえてもいい。
興味あるいは好奇心を向けられた人は、それに応えようとする。

「洗い物が片付いてないんだけど、あまりに疲れていてたくさん休む必要があったから、まだそこまでたどりついてないということなのかな?」
彼はなんとこたえるだろうか。
「そうなんだ。でも、いまからやるよ」
かもしれないし、
「すまん、たんに忘れてただけ」
かもしれない。
責めることばを使ったときとまったくちがう展開になることに気づいただろうか。

なぜこういうことが起こるののか。
それは、あなたが彼に「興味/好奇心」を向けたからだ。
すなわちそれは、「共感」ということになる。

人はだれかに共感を向けられたとき、自分の役割を思いだす。
逆に責められることばを向けられたときは、反発し、殻にとじこもったり、楯を置いたりする。
相手を責めることばはなにもいいことを生まない。

即興演奏のエチュード「音を全身にしみこませる」

photo credit: Timefortea3 via photopincc

即興演奏のエチュード No.1「音を全身にしみこませる」

ピアノにむかってすわります。
鍵盤のどこでもいいので、ひとつ選んで押さえます。
白鍵でも黒鍵でもいいのです。
高い場所でも低い場所でもいいのです。
鍵盤を押さえると音が鳴ります(ピアノとはそういうものです)。
すぐに離さずに押さえつづけます(音をキープします)。
音はだんだん小さくなって消えていきますが、ずっと聴きつづけます。
全身が耳になったような気持ちで、音を全身で受けとめ、味わいます。
音は空気の振動です。
その振動を皮膚で受けとめるような気持ちで、身体のなかにしみこませます。
音がだんだん小さくなっていって、最後には完全に消えてしまうまで、聴きつづけます。


ピアノにはペダルがついている。
古いピアノだとふたつ、新しいピアノだとみっつある。
デジタルピアノだとひとつしかないかもしれない。
いきなりペダルを使ってみることにする。

初心者向けのレッスンだと、ペダルを使うようになるのはかなり演奏技術レベルがあがってからだ。
たとえばバイエル教本などではペダルは使用しない。
ペダルを使うようになると、かなり高度なレベルになったような気がしてうれしかったりする。
しかし、即興演奏法では最初からペダルにしたしんでおきたい。

使うのは一番右の「強音ペダル」(ダンパーペダルともいいます)だ。
ピアノは通常、すべての弦がダンパーのフェルトで振動しないように押さえられていて、鳴らした弦だけがフェルトが浮いて音が持続するようにできている。
ダンパーペダルを踏むとすべての弦が「開放」され、鳴らした弦の音がすべての弦にも「共鳴」する。
ひとつの音がふわっと広がりのある音になる。
また、そのまま別の音を弾きつづけると、前の音が消えずに残ったままつぎつぎと音が重なっていく。
ダンパーペダルを多用しすぎると、音が濁って聴きづらくなることもある。

いまはひとつの音だけをできるだけ持続させるために使う。
ペダルを踏みこみ、鍵盤をひとつ押してみる。
さきほどとは違った響きになるはずだ。
そして持続時間も長くなるだろう。
よりじっくりと音を味わえる。

こうしてまずはじっくりと音を味わう、自分の身体全体で音を受けとめる感受性を育てる、これが即興演奏においてとても大切な入口なのだ。

音読日めくり1月6日:飯田蛇笏「茸をたずねる」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、飯田蛇笏「茸をたずねる」です。

今日のフォトは羽田空港第一ターミナルビル内です。
ここはJALなどの国内線の発着がおこなわれます。
第二ターミナルのほうはANAなど。
ほかに国際ターミナルビルというのが最近できて、電車で行くときまちがえて降りてしまいそうになります。

2013年1月5日土曜日

あさっては新春新進即興演奏ショー(早口でつづけて3回)

私の正月は今日で終わり。といっても、書類の片付けやら書き物やら告知やら、雪かきやらは毎日やっていたので、完全に休んでいたわけではないが。
明日は東京にもどって、2013年の活動を本格始動する。

今年の最初のイベントはあさって7日の新春即興ライブだ。
下北沢の〈アポロ〉というジャズバーで、私はここは初めてだ。
ボイスパフォーマーの徳久ウイリアムくんがここに話をつけてくれた。

そもそもことの始まりは、名古屋の位里ちゃんとの話だった。
私は名古屋での活動がけっこう長く、そこそこたくさんやってきた。
なかでも2009年と2010年にかけてやったウェルバ・アクトゥスの活動はかなりおおがかりなものだった。
じつはこれを機に名古屋でも現代朗読の拠点を持ちたいという望みがあった。
が、残念ながらウェルバ・アクトゥスの活動は諸事情から霧散し、継続ができなくなった。

それでも名古屋での活動拠点を作りたいという私の思いは消えず、位里ちゃんに相談したのだった。


なぜ私が名古屋にこだわるかというと、名古屋には榊原忠美がいて、朗読と音楽のパフォーマンス活動を始めたのはそもそも彼がいたからだった。
それはいまでもつづいていて、30年近い付き合いになっている。
また、妹や息子が名古屋に住んでいる、というプライベートな事情もある。
榊原との長年の付き合いで生まれた知り合いも多いし、ウェルバ・アクトゥスの活動で生まれたつながりもたくさんある。
なにより、名古屋の人からとても大事にしてもらっているという実感がある。

位里ちゃんはいつも私のブログを読んでくれていて、とくに最近は「即興演奏法」の話がお気に入りのようだ。
「これ、絶対おもしろいよ」
といってくれている。
そのへんを核にして名古屋でまず知名度をあげられないか、という。
私には位里ちゃんのかんがえはよくわからないけれど、事情通の位里ちゃんの助言にはしたがおうと思っていた。

名古屋でまず即興系のライブをやろうよ、と位里ちゃんはいう。
わかった、ということになった。
位里ちゃんはアバンギャルドな音楽シーンにも出入りしていて、名古屋で即興系といえば臼井康浩さんをはずすわけにはいかない、まず彼とセッションしなさいよ、という。
名前は聞いたことがあるけれど、一度も演奏を聴いたことがない。
けれど、位里ちゃんがいうんだから、やってみたいと思った。
しかし、臼井さんは全国をライブ行脚しているばかりか、世界を股にかけて活躍している方で、おそろしいほどのライブをこなしている。
私のような無名のピアノ弾きとやってくれるだろうか。

調べてみると、なんと臼井さんは私の知り合いの徳久ウイリアム氏とちょくちょくセッションをやっているではないか。
ほかにも、いつも遊んでもらっているフリージャズピアニストの板倉克行さんつながりの即興系ミュージシャンとも、多くの関わりがあるようだ。

私はさっそく徳久くんに連絡して、臼井さんとのセッションを組んでもらえないかと頼みこんだ。
こころよい返事をもらって、今回の〈アポロ〉のライブが実現した。


臼井さんのギター、徳久くんのボイス、私のピアノ、それに朗読の野々宮卯妙が加わって、即興セッションがあさっておこなわれる。
臼井さんと徳久くんの組み合わせ以外はほとんど初顔合わせといっていい。
それがなにも決めごとなしの即興セッションをおこなう。
なにが起こるかまったく予測できない。

朗読では私のテキストを使ってもらうことにした。
その場のくじ引きで演奏の組み合わせを決めよう、などという素っ頓狂だけどおもしろい案も出ている。
予定調和はまったくなしの、出たとこ勝負、全身全霊を投入しての渾身の新春セッション。
絶対おもしろいことまちがいありません、などと無責任な保証はできないし、私自身もどうなるかわからないのだが、うまくいっても、コケても、あるいは奇跡が起こっても、すべて受け入れて楽しみ、2013年の糧としようとおもっている。
都合がつく人はぜひおいでください。
詳細はこちら。

音楽演奏の世界に踏みだすということ/即興演奏のエチュード「音を味わう」

photo credit: Woman of Scorn via photopincc

音楽演奏を習いたいと思ったとき、みなさんはどうするだろうか。たとえばピアノ演奏の場合。

大人の場合は近所の楽器店や音楽教室をたずねて、大人のためのピアノ教室みたいなところに行くだろう。
子どもの場合もやはりそのような教室に行かせることになるだろう。
ほかに選択肢はないように見える。

親しい知り合いや家族にピアノの先生とか演奏家がいれば、直接その人に習おうとするかもしれないが、そんなのはまれなケースだ。


さて、ぶじにピアノ教室を見つけて、ピアノ教師を確保したとする。
つぎはどうするだろうか。
楽譜の読み方を教わるだろうか。
鍵盤のドレミの場所を教わるだろうか。
運指を教わって、ドレミの音階を弾く練習をするだろうか。

いずれにしても、ピアノ演奏にかかわる「技術」を、難易度のひくい順番に教わっていくだろう。
うまくすれば数か月後には簡単な曲のひとつもたどたどしく弾けるようになるかもしれない。
ポピュラーピアノを教えてくれる先生についたなら、左手でコードを押さえ右手でメロディを弾くというような演奏のしかたをおぼえて、半年くらいで2、3曲は弾けるようになるかもしれない。

へたくそな演奏も何か月、何年とたつうちに、多少は人に聴かせられるレベルになっていくかもしれない。
が、もっともありそうなのは、日々の反復練習につかれていつしかピアノから遠ざかり、二度とピアノにさわらない生活にもどってしまうことだ。
だっていくら簡単な練習だからといって反復練習ほどつまらないものはない。
そして、現状の演奏習得の方法としてはこれ以外の方法はまずないのだ。
もちろん自分で自由に即興演奏したり、耳おぼえのある曲にとっさに伴奏をつけて歌う人と楽しんだり、ほかの楽器との合奏を楽しんだり、というレベルにたっするにはかなりの年数と根気を必要とする。


これとはまったくちがうアプローチの演奏習得法はないものだろうか、と私はかんがえてきた。
そしてそれを見つけた、とおもう。
それを今年の音楽塾で実践していこうと計画しているのだが、どういうふうにやるつもりなのか、その一端をこのブログでときどき紹介してみようとおもう。

まったくの初心者がピアノに向かったとき、まずやってほしいことがある。
それは、ピアノという楽器がどのような音を出す楽器なのか、じっくりと味わってほしい、ということだ。
スケールなど弾けなくてもいい、ドレミの位置などわからなくてもいい、しかしとにかく鍵盤に指を置きさえすれば音が鳴る、というすばらしい楽器なのだ。

トランペットやフルートやバイオリンなどは、音を出すだけでもひと苦労だ。
ましてや美しい音色を出そうとおもうと、どれだけ鍛錬しなければならないか。
プロの演奏家ですら、音色の追求は一生ものだろう。

ピアノに音色の追求がないとはいわない。
もちろんある。
が、とりあえずは鍵盤を押さえれば、だれでもそれなりのきれいな音が出ることは事実だ。

どこでもいい、まずは鍵盤の好きな位置に指を置き、鍵盤を押しさげてみよう。
音が出た。
さて、それをじっくりと味わってみよう。
文字どおり、音を食べるように、自分の身体のなかにいれていくように味わってみる。
全身で味わってみる。
全身が音を味わう舌になったかのように、その音を味わって身体のなかにしみこませてみる。

これが音楽演奏のスタート地点だ。
あなたはもう演奏のスタート地点に立っている。
いや、すでに一歩踏みだしている。
さて、つぎはどうする?

音読日めくり1月5日:坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」です。

今日のフォトは地下鉄の広告パネルです。
広告はさまざまに目をひく工夫をしていますが、この「脚」も目をひきますね。私だけでしょうか。

2013年1月4日金曜日

「人に認められること」が大切な人はなにが大切なのか

photo credit: xmacex via photopincc

すべての人は自分が「大切にしていること」、自分の「価値観」や「必要性」にもとづいて行動を起こす。それは本能的な衝動であったり、生理的な必要性であったり、社会的な関係性であったり、さまざまだ。

「なにか食べたい」と思って動くとき、それは「空腹を満たす」という生理的な衝動から生まれるものであり、もっと突き詰めれば「生存欲求」という本能に突きあたる。

人は社会的な生き物であり、他者との関係性のなかで生きている。
個人の生きがいが、社会や他者に貢献することであることはしばしばある。
多くの人が「人に認められたい」という行動原理をかかえて生きている。
「人に認められること」が生きがいや価値観、人生において大切なこと、必要なことになっている人を多く見る。
それ自体が目的化している人すら多い。

たとえば音楽をやっている人がいるとする。
もともとは好きで始めた表現活動としての音楽だが、ただ好きでやっているだけではとても持続できずに、自分の表現をだれかに認められたい、ということを切望しはじめる。
人に認められるためにはどんなことをすればいいのか、とかんがえる。
自分が好きではじめて、純粋なよろこびをもって表現していたものが、しだいに他人の評価軸が基準になっていってしまう。
そうなると、もはやそれは自分の人生を歩いていることにはならない。

しかし、だれかに評価されること、というのは大切なことのように思える。
だれかに評価されたときの満足感はたしかに大きい。
では、それが人生において「大切なこと」としてよいのだろうか。


私は「人に評価されること」は、それ自体が価値ではなく、手段だとかんがえている。
人に評価されることによって、自分の大切にしていることのなにが満たされるのか、ということだ。

たとえば、だれかとのつながりを感じること。
自分が表現し、それをだれかから評価されることによって、その人とのつながりを感じることができる。
つながりを感じるだけなら、本当は「評価」という手段でなくてもよいはずなのに。
そのことは、評価を受けることが本質ではなく手段にすぎないことを物語っている。

ほかにはたとえば、自分の影響力を確認すること。
この世に生まれてきて、生きている以上、自分がここに存在し、他人や世界に対して影響をあたえているという実感を、どんな人ももとめている。
だれかから評価されることによって、その実感を持てる。
しかし、自分がここに存在して世界に影響をおよぼしている実感は、評価という手段にたよらなくても得ることはできる。
これもまた、評価を受けることがたんなる手段にすぎないことを物語っている。

自分がだれかから評価されたいと切望しているとき、そのさらに奥にある自分の価値、必要性はなんなのだろうかと目をこらしてみる。
それを満たすために、評価以外の方法はないかどうか、慎重に検討してみる。
それができれば、他人軸にたよる生き方から離れられるだろう。
だれかの評価に依存しなくても自分自身でいられるということ。
すなわち、自分の人生を取りもどすということ。

正月の食事

正月三が日といえばおせち料理だが、そのほかにいろいろいただいた。この何年か、それが恒例になっている。
一日はすき焼き。
二日はカニすき。
三日はもうこってりしたものはなにも口にはいらないので、なにかあっさりしたもの。

おせちは手作りの昆布巻きや、たことなまこの酢の物、だし巻き玉子、かまぼこ、きんぴらごぼう、黒豆、酢レンコン、酢かぶ、棒だら、根菜の煮物などなど、日持ちのするものを中心に。
あとは丸餅と鰹節以外なにもはいっていない味噌ベースの雑煮。
これは福井県独特だと思う。

すき焼きはいただきものの飛騨牛で、霜降りの最高級肉。
食べていてなにか申し訳ない気分になる。
最後にトロトロになったヘッドをペロッといただくのが、最高にうまい。

カニすきは山陰沖の松葉がに。
今年はそれに東北の生ガキもいっしょに送られてきた。
私はカキはいまいち苦手なので、一個だけいただいた。

昨日は日記に書いたように、息子といっしょにダッチオーブンで野菜の蒸し炒めを作った。
今日はかにの残りをゆでておいたものをほぐして、カニ玉にしてみた。
甘酢あんをかけて、おいしくいただいた。

基本的に私の食生活は質素なのだ。
外食するときは別だが、たいていは、とくに朝食はいつも自分で作ってひとりで食べる。
玄米ご飯と味噌汁、それに焼き魚とか野菜炒めとか、そんなもの。
そして1日2食、間食もなし。
ふだんがそうなんだから、1年に一度の正月の贅沢も許してもらおう。

映画「プロメテウス」を観た、残念!

いやいや、ひさしぶりに笑っちゃいました。正月だというので、息子といっしょにMacBookにダウンロードして観たんだけど、ひさしぶりにshitな映画を観てふたりであきれかえってた。
期待度が高かったせいかなあ。
なにしろ、監督はあのリドリー・スコットですからね。

リドリー・スコットといえば私のベストテンにはいる映画をいくつも撮っている。
「テルマ&ルイーズ」や「ブレードランナー」、そしてもちろん初代「エイリアン」。
ベスト10にははいらないけど、「ブラック・レイン」「ハンニバル」「グラディエーター」もこの人だ。
キャストにもなんとシャーリーズ・セロンがはいってたり、「タイムマシン」のガイ・ピアースなんてのもいる。
期待するなというほうが無理。

映像テクノロジーの頂点ともいうべきカットの連続で、どこからがCGでどこからが実写なのかまったくわからないのはもちろんのこと、宇宙船などの人工物や異星の風景なども精巧・精密に作りこまれていて、それはもう「これ以上ないでしょう」という贅沢な画面。
SFX好きにはたまらないだろうか。
しかし、「それがどうした」ということなのだ。

テクノロジーが進んで凝った映像が作れるのは、大変かもしれないけれど、あたりまえのこと。
そのテクノロジーを使ってどんなことを表現するのか、ということが問題なのだ。

チャーリー・チャップリンはトーキー映画が登場してもかたくなにサイレントにこだわった作りつづけた。
彼は技術の発展ではなく、自分自身の表現を追求しつづけたのだ。
では、リドリー・スコットはこの映画でなにを描きたかったのだろう。
超精密な宇宙船を描きたかったのではないはず。
気持ち悪いエイリアンのリアルさでもなかったはず。
凶悪なだけの「創造主」ではなかったはず。

登場人物たちはすべてがある種の「典型」であり、いかにもハリウッドのホラーSFっぽい対立構造を作ってある。
そんなことを表現したかったわけではないだろう。
ノオミ・ラパスが演じるヒロインは、創造主に会うことに期待をふくらませる育ちのいい科学者だが、後半に突然、超越的な生存本能を持ったスーパー・ウーマンになる。
その唐突な変貌ぶりを表現したかったわけでもなかっただろう。
これでもか、これでもかと続出するスプラッタな残虐シーンや、ヒロインの「割腹」シーン、そんなものを表現したかったのだろうか。
人類の創造主であるはずの男が、ただの凶暴な野獣だったという結末を描きたかったのだろうか。

いったい、なにをいいたいんだ、リドリー・スコット。
あまりに陳腐で残虐なストーリー展開に、ただただ笑うしかない。
これがあの「エイリアン」を作った監督なのか。

「エイリアン」はおなじ恐怖をあつかっていながら、人間の心理や勇気、生きることそのもの、人知のおよばない世界に想像をはばたかせることなど、娯楽SFホラーでありながらある種の崇高さをも感じる高いクオリティを持つ映画だった。
それに比べて、あまりにあまりな。
巨大な資金とその回収、利益をねらったあまりの、壮大なる「すべった」映画になってしまった、ということなのだろうか。
とても残念だ。


雪国の美しい朝、雪かき、ダッチオーブン、薪ストーブ

積雪80センチと予報されていた雪は、実際には30センチくらいにとどまって、今日はパカッと晴れた。
雪国の最高に美しい朝。
元旦から帰省していた息子が名古屋にもどるというので、駅まで送っていく。駅裏の山が美しい。

正月は男が働くときということで、昨日は息子といっしょに夕飯を作る。
といっても、ダッチオーブンに野菜のぶつ切りをぶちこんで塩こしょうをし、薪ストーブにかけて10分くらい放置するだけ。
これがまた最高においしいのだ。

去年の正月のツイートを見てみると、去年の正月も薪ストーブの番をしていた。
あと、金沢21世紀美術館に「モニーク・フリードマン展」を観に行っている。

街中では人々(ほぼ年寄りばかり)が必死に雪かきをしている。
アスファルトが見えるまでこそぎ取るようにして除雪している。
日が出てきたのでどうせ溶けるだろうと、私んちのまわりは放置。
そのかわり、車庫の上と下屋の雪をこれから落とすことにした。
落とした雪はもちろん片付けなければ出入りできないし、車も出し入れできないのだが。

あと、元旦からずっと作業していた『原発破壊』のKindle版が完成したので、アマゾンで配信作業。
ほかにもいくつかやりたいことがある。
東京にはあさって戻るので、それまでになるべく片付けておきたいけど、雪かきもすませておきたい。

音読日めくり1月4日:泉鏡花『草迷宮』

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、泉鏡花『草迷宮』です。

今日のフォトは月島の風景です。
月島というと西中商店街、通称もんじゃ通りのもんじゃ焼きの店が有名ですが、けっこうビルが建ち並ぶ都会的な街なのでした。

2013年1月3日木曜日

映画「ホビット 思いがけない冒険」を観てきた

昨日は息子も帰省中なので、いっしょに映画を観に行った。そこでおどろいたこと、いくつか。

1. 正月2日めはものすごい車と人でシネコン付きの郊外型ショッピングセンターはごった返していた。
2. だだっ広い駐車場からも車があふれて、運よく駐車できてよかったものの、あやうく上映時間に遅れるところだった。
3. ショッピングセンターのハンバーガーショップとかたこ焼き屋には長蛇の列ができていた。ほとんどが家族連れ。
4. にもかかわらず、映画館はがら空きだった。
5. 映画「ホビット」は3時間近い長尺映画だった。
6. にもかかわらず「つづく」。

いやいや、いろいろとびっくりした。

「ホビット 思いがけない冒険」は「ロード・オブ・ザ・リング」の時代をさかのぼること60年、その前エピソードを描いている。
監督はおなじピーター・ジャクソン。
これは憶測だが、ジャクソン監督は「ロード・オブ・ザ・リング」の撮影にはいる前に、実はすでに「ホビット」の脚本も完成させていて、しかし映画会社としては興行計画上、著名な「ロード・オブ・ザ・リング」のほうを先に完成させる必要があったのではないか。
しかしジャクソン監督は同時に「ホビット」の撮影も進めていたのではないか。
そうとしかかんがえられないキャストだった。

風景とかセットとか、生き物とか、登場人物とか、ほとんどがCGだと思うけれど、どこからCGでどこが実写かなんて、もういちいちかんがえていられない。
そんなことはどうでもいい。
結局のところ、なにを描くか、なにを伝えるか、というところに映画は集約される。
つまり、技術は表現に隷属しているということだ。
ここのところ、大事。

で、170分の映画はすこしも長く感じられなかった。
170分が「つづく」的な感じで終わったのにはびっくりしたけれど。
「ホビット」は2部作なのか、3部作なのか。
そのあたりの情報を私は持っていない。

音読日めくり1月3日:石川啄木「飛行機」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、石川啄木「飛行機」です。

今日のフォトは東松原駅から見た羽根木の家並と空です。
駅改札の外の跨線橋から腕をのばして撮った写真です。
このあたりは高い建物がなく、空が広くて気持ちいいのです。

2013年1月2日水曜日

rapooのBluetoothキーボード E6300 を iPad mini で使ってみる

ヨドバシのポイントがあったので、iPad mini 用のBluetoothキーボードのかなりコンパクトなやつを買ってみた。写真は iPad mini といっしょに置いてあるもので、写真で見るより実際はもっとずっと小さく感じる。
下がアップル純正のBluetoothキーボードと比べた写真。

小さくて丈夫なので、小さなカバンに無造作に放りこんで持ちはこべる。
iPad mini とこのキーボードを軽快に持ちあるいて、どこででも物書き仕事ができればいうことはない。
実際に使ってみた。

小さいのでミスタッチが多い。
それにキー配列がMacとは違うので、どこにどの文字が配置されているのか、慣れるまでしばらくかかりそうだ。
しかも私はJIS配列のカナ入力。
慣れればある程度打てるようになるかもしれないが、慣れる過程がちょっと面倒な感じ。

なんとなくレスポンスも悪いような気がする。
これは純正キーボードと比べてそう感じる。
キーを押してそれが画面に表示されるのに、ほんの一瞬だがタイムラグがある。
通常まったく気にならないレベルだと思うが、私のように高速入力をするものにとってはほんの一瞬のタイムラグも気になるところだ。

電池は内蔵式。
USB給電で充電する方式。

この製品の魅力は、その小ささと薄さ、そして丈夫さだろう。
デザインも悪くない。
さて、私にとって使いものになるだろうか。
もうすこし使いこんでみなければわからない。




えちぜん鉄道 冬景色 発坂〜勝山、私の原風景

昨日、えちぜん鉄道に乗ったとき、運転士のうしろにはりついて運転席から見える景色をiPhoneでムービー録画したものを公開してみた。
雪景色だが、この程度の積雪は電車の運航にはまったく問題なし。
このあたりは2メートル、3メートルという積雪がめずらしくない豪雪地帯なのだ。

私はこどものころ、この線路の近くの、九頭竜川の堤防沿いの家に住んでいたので、線路脇は遊び場だった。
線路に五円玉を置いて電車にひかせたりした。
電車にひかれた五円玉はぐにょっとのされて大きくなるのだが、まんなかの穴は大きくなるのか小さくなるのか好奇心いっぱいで、実際に検証できてうれしかった。
いまそんなことをやれば即刻逮捕されるだろうけど。

この線路の両側には九頭竜川の支流や用水路がたくさん流れていて、釣りの場所には事欠かなかった。
フナやコイ、ウグイ、たまにナマズやスッポンなどが釣れた。
見たとおり、冬になると非常に寒い風景となるのだが、これが自分の原風景のひとつであることは否定しがたい。

この歳になってようやくそのことを受け入れられるようになった。
また、自分がいかに貴重な豊かな少年時代を送ったのか、あらためて思いかえすようになった。
この体験を物書きとしていまの子どもたちに伝えていくことも自分の仕事のひとつなのではないか、と最近はなんとなく思いはじめている。

不安なのか? 地震の初夢

初夢なんてほとんど覚えていたことはないが、今日はなぜかくっきりと覚えている。羽根木の家によく似た古民家でなにかの集まりをやっていた。
いつものげろきょのメンバーではなく、知らない中年女性たちに私も混じっていた。
なにをやっていたのかは覚えていない。
そこへ大きな地震がやってきた。
まず前震、そして本格的な揺れ。
縁側のガラス窓が割れ、危険なのでみんなを誘導して座敷のなかほどに集めたが、今度は柱が傾いていく。
やばい、このままだとつぶされる、と思ったら、揺れがおさまり、傾きはとまった。

ガラスを踏みながら外に出てみると、家は傾いているが、なんとかもっている。
斜面の上のほうにやはり大きな民家があって、それは完全に倒壊している。
庭ではさっそく炊き出しの準備がはじまっている。
家のなかにもどると、座敷でものを片付ける作業をしているおばさんがひとりいて、私はそれを手伝いはじめる。

という初夢。
地震の夢は不安や自信のなさをあらわしている、ということになっている。
しかしまあ、311以後に見る地震の夢はそれだけの解釈ですまないような気はするが。

不安や自信のなさは、「いまここ」のマインドフルな意識であること、自分が大切にしていることをいつもきちんと認識していることで消える。
今年もマインドフルネスは共感的コミュニケーションのスキルアップ、そしてそれを人に伝えていくこと、これも私にとっては大切なことのひとつだ。

共感的コミュニケーションと音読療法については活動の持続性を大切にしたいので、今年はうまくキャッシュがまわるようにして持続性を確保することが課題だ。
知恵をしぼり、手間をおしまずにいこう。

写真は実家猫、フキとベス。

※あと6日。下北沢APOLLOにて1月7日19:30より新春即興演奏withロードクライブをおこないます。
 出演は水城(piano)、臼井康浩(guitar)、徳久ウイリアム(voice)、野々宮卯妙(朗読)。
 詳細はこちら。

音読日めくり1月2日:芥川龍之介「或阿呆の一生」

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、芥川龍之介「或阿呆の一生」です。

今日のフォトは地下鉄のターミナル駅入口です。
どこの駅だかわすれましたが、野村証券、公益社ともに私には縁がなさそうです。

2013年1月1日火曜日

恒例の元日すき焼き、新年喫緊のトピック

北陸の実家もさいわい雪はたいしたことなくて、のんびりすごしている。夕方には名古屋にいる息子も帰ってきた。
元気そうだ。

妹とその息子が年末からすでに帰省しているのだが、妹の旦那の実家から毎年いただく豪勢な飛騨牛の霜降り肉で今年もすき焼き。
明日はたぶんズワイガニで焼きガニ。

実家の給湯器が故障して、熱湯か冷水かどちらかしか出ない。
お湯と水の蛇口を微妙に調整してちょうどいい温度にして風呂にはいる。
でもまあ、こういうの、少し前まで普通だったわな。
ホテルだってこういうシステムだし。

そうそう、年明けて喫緊のトピックは、1月7日の下北沢〈アポロ〉の即興音楽と朗読のライブの集客。
あと6日しかないってのに、来てくれるという人、ひとり、ふたりと寂しい。
実はこのライブ、私が名古屋でも音楽活動をやりたいと思って位里ちゃんに相談したところ、名古屋には臼井さんというキーパーソンがいる、しょっちゅう東京にも行ってるから、一度演奏チャンスを作っては、というアドバイスをもらった。
しかも臼井さんは徳久くんとは旧知の関係であることがわかったので、徳久くんに頼みこんでこのライブをセッティングしてもらった。

臼井康浩(g)、徳久ウイリアム(voice)、水城ゆう℗、野々宮卯妙(朗読)による新春即興ライブで、初顔合わせ。
なにが飛びだすかわからないスリリングなライブになること間違いない。
みなさん、都合がつく方はぜひ来てね〜。
詳細はこちら。

2013年、豊富な抱負

2012年はあまりに盛りだくさんすぎて、「2012年大晦日におもう」でも書いたように、いささかとっちらかった感が強い。今年も抱負は豊富にあるけれど、とっちらからないように絞りこんで、限られたリソースを集中して成果をあげたい。

◎現代朗読

コンテンポラリー表現としてのあたらしいフェーズにはいってきている確信があると同時に、エンタテインメント性も追求してより多くの人に知ってもらい、観ることも参加することも楽しんでもらえるようにしたい。
参加している人ひとりひとりのニーズとつながりをもっともっと大切にしていきたい。

◎音読療法

社会貢献と、普及・教育について継続的な活動をするために、運営の土台をしっかりと作っていきたい。
職業としてのボイスセラピストを認知・実現させていきたい。
幸いボイスセラピストたちの自主的な活動と貢献によってこれまでささえられ、また今後の広がりに希望が持てるので、大変な仕事になるとは思うが先行きは明るいと感じている。

◎コンテンツ製作

電子書籍や朗読テキストの執筆、音楽・音声コンテンツの製作、楽譜出版、映像コンテンツの配信など、計画的にすすめていきたい。

◎自分自身のライブ表現

音楽演奏、とくに即興音楽の演奏活動は、今年も継続的におこなっていきたい。
リアルタイム表現が自分の瞬発力と反射能力、マインドフルネスのスキルを鍛えてくれる。
即興演奏法については音楽塾や個人レッスンを通じて、さらに体系化を完成させたい。

あけおめ、北陸の実家へ帰省、ブログ統計

このところ毎年恒例の元旦移動、北陸の実家への帰省。羽田空港に向かう途中、JALからメール。
「条件付き運航のお知らせ」
先月もそうだったが、降雪のために着陸の安全が得られないときは羽田に引き返すことがある、ということだ。

元旦の羽田はすいていた。
家族連れがめだつ。
晴れていい天気で、真っ白な富士山がくっきりと見える。

15分遅れくらいで出発し、小松は降雪が小康状態ということで、引き返すこともなく無事に着陸した。
しかし、地表は真っ白。
空港バスから見る里山の風景は美しかった。

このブログ「水の反映」の統計データ。
これまでのアクセス総数は約28万。

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どこから飛んできているか。
ダントツに多いのがGoogle検索、つづいてフェイスブックとヤフー。
mixiがほんのちょっぴり。
Twitterがまったくないのが意外。

音読日めくり1月1日:有島武郎『カインの末裔』

「音読日めくり」を更新しました。今日の音読日めくりは、有島武郎『カインの末裔』です。

新年あけましておめでとうございます。
今日のフォトは空の上から望む駿河湾、テキストは有島武郎『カインの末裔』です。