2013年7月13日土曜日

朗読者は聴衆になにを伝えるのか

現代朗読の体験講座や基礎講座にやってきた人、あるいはゼミ生になったばかりの人の多くが、
「聴衆にどのように受け取られるのか気になる」
とか、
「私のような未熟な者がひと前で表現していいんだろうか」
とか、
「評価(攻撃)されるのが怖い」
といった言葉を口にする。
私たちは教育や社会生活のなかで、「他人から評価されること」を価値基準にすることを身につけてきてしまっているので、それもしかたのないことだろう。
しかし、いつまでも他人軸の評価に依存していては幸せになれないし、自分自身ののびやかな表現はとうていできない。

そもそも「他人」は複数/大勢いて、そのひとりひとりがちがった価値・評価基準を持っている。
私がよいと思っておこなった表現も、Aさんにとっては「気にいらない」かもしれないし、Bさんにとっては「とってもすばらしい」と取られるかもしれない。
とくに現代朗読のように斬新な、これまであまりやられていない表現をひと前にさらすとき、その評価はまちまちでさまざまなものとなる。
大変おもしろがってくれる人もいれば、極端な拒絶感を示したり、怒りだしたりする人もいる。
本当にそういうことがあって、私たちは多く経験している。

怒りだした人はいったいどういう価値を大切にしているのだろう。
朗読というのは自分自身をさらけ出すのではなく、つつましく本に寄りそい、作者の思いを聴衆にきれいな日本語で届ける、ということを大切にしているのかもしれない。
それ以外のものは朗読とは認めることができず、だから怒りだしてしまったのかもしれない。
その人がそういうふうに反応するかどうかというのは、実際にこちらが表現してみるまでわからない。

こちらが表現したとき、さまざまな反応が起こる。
それらの反応についてすべて正確に予測することはできないし、おおざっぱに「だいたいこんな反応が多いだろう」とつかんで予測しても、それは正解ではないだろう。
唯一の解は、あらかじめ予測ができない反応についてはかんがえない、ということしかない。
そのとき私たちができるのは、「いまこの瞬間の自分自身」に誠実であることだ。

他人の価値ではなく、自分自身の価値につながりつづけること。
しかもその価値は刻一刻と変化しつづけている。
瞬間瞬間、自分自身につながりつづけること。
それしか誠実な表現はありえない。
その結果相手のなかに生まれた反応・評価については、その人の価値を認めることで受け入れ、相手にも自分自身にも共感することで大切な表現の場と機会を守るのだ。

現代朗読協会の総力戦「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演は、7月27日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて開催。
詳細はこちらです。