最近の現代朗読ゼミでは非常に刺激的な気づきがたくさんある。
とくに朗読表現と身体使いの関係について、一気に明確な手法が整理されてきた感がある。
現代朗読はNPO法人として組織された2006年より前から、連続的にその手法と考え方が変化しつづけてきたが、去年のなかごろから急速に明確なコンセプトが見えてきたように思う。
ちょうど「キッズ・イン・ザ・ダーク」の第一回めの準備がスタートしたあたりから急加速が始まったように感じる。
いちおうはつながりを持っていたが、それでもまだちょっと別々に存在していたいくつかのパズルが、カチっ、カチっと音を立ててはまりあい、ひとつになってきたような印象だ。
コンテンポラリーアート、朗読表現、身体表現、アレクサンダー・テクニーク、マインドフルネス、構造主義、共感的コミュニケーションといったキーワードが、現代朗読という表現行為を通してひとつの有機的なまとまりを作りはじめている。
そのきっかけのひとつが「韓氏意拳」という武術に出会ったことだ。
ここでは驚くほど緻密に自分の身体内部を見ていく。
「体認」というのだが、自分の身体の「内実」があるかどうか、静止しているとき、動くときに、何兆もの細胞が連動して人の身体を支えるその「自然」を見る。
私はほかにもいくつかの武術を経験しているが、これほど緻密に身体を扱うものをほかに知らない。
武術に限らない。
表現にしてもスポーツにしても、これほど精緻に身体操作を学ぶための方法を、私はこれまで聞いたことがない。
韓氏意拳はまだ始めたばかりだが、その身体操作についてのアプローチは朗読表現や音楽演奏にも大きなヒントとなる。
そして、身体とこころのつながり、マインドフルネス、共感的コミュニケーション、アレクサンダー・テクニークといったものの理解をさらに深めることに役立つのだ。
先日のゼミでは、身体にちょっとした準備をさせてやるだけで、声と表現が大きく変わることを確認した。
準備をするといっても、力んだりするのではない。
身体に必要最小限の準備「内実」を整えることを意識するだけで、出てくる声の質がまったく変わるのだ。
少しでも「力をいれる」ということをかんがえてしまったらうまくいかない。
ただ身体を信頼して、身体に任せて「内実」を整える。
表現のクオリティを格段に向上させるための方法が、まちがいなくこちらの方向にあると確信している。
金鉱を掘り当てた実感がある。
げろきょはこれから恐ろしい表現集団になっていくだろう。