photo credit: ViaMoi via photopincc
最近あまり聞かなくなったが、「目利き」という言葉がある。
目がよくきいて、ものごとの違いを見分けたり、物品のクオリティを品定めしたり、人の資質や可能性を見抜いたり、といった能力のことだ。
生まれつき持っている能力ではなく、訓練によってつちかわれるものだろうと思う。
私もそれなりに長く生き、またある種の訓練を常に自分に課してきた結果、そこそこの「目利き」になってこれたのではないかと自負している。
私が自分のことを目利きだといえるのは、朗読や文筆、音楽などの表現の分野においてだ。
これまで数多くの表現を受け取り、表現者と関わってきた。
ただ観たり聞いたりするだけ、あるいは関わるだけでは目利きになれない。
目利きになるにはひとつの条件がある。
それは「純粋な観察力」だ。
観察するというのは、論評することではない。
対象に真剣に向かい合い、判断や論評することなく、ただ受け取る。
言語的思考にとらわれることなく、対象を受け入れ、感じる。
そのことで見えてくることがある。
そのような観察をつづけていくと、しだいに観察力は深化していく。
つまり、ふつうの人が見過ごしているような微細な変化や兆候に気づけるようになっていく。
私の場合は、相手の自分自身ですら知らない可能性や表現稼働域を見抜くことがあるし、声と呼吸をすこしだけ観て身体の状態とメンタリティをある程度類推することができる。
これは自慢しているのではなく、だれもが目利きになることができるといいたいのだ。
目利きになるとは、ものごとの本質やクオリティがくっきりと見えてくるということであり、より純粋に対象に向かっていくことができるということだ。
こちらも表現者である場合、自分がどこをめざしたいのかが明確になっていくということでもある。
観察、観察、観察。
純粋な観察。
これにつきると思っている。