これはなにもピアノ演奏に限ったことではないのだろうが、今日はピアノを演奏する、という行為について書く。
私は10歳のころからピアノを弾きつづけてきて、現在(56歳)にいたる。
46年間、ピアノ演奏をつづけてきたわけだが、その間の40年くらいはまったく自分の演奏ができていなかったということを、いま振り返って思う。
ピアノは弾けていた。
ある曲を楽譜どおりに弾いたり、コード進行にのっとってアドリブ演奏したり、といったことは「技術的に」できていた。
ところが、それが自分の演奏であったかというと、まったくそうではなかったと感じる。
自分の演奏とはなにか。
自分にしか弾けない音をだれかにとどけることだ。
楽譜どおりに弾いても、ただそれをなぞって弾くのと、自分のオリジナリティをもって弾くのとでは、相手にとどくものがまったく違う。
それは音楽が好きでいろいろなプレーヤーの演奏を聴いている人なら実感していることだろう。
ひるがえって、プレーヤーの側から見たら、そういう演奏はどのようにすればできるのか。
七年くらい前にアレクサンダー・テクニークというものに出会った。
そのときに自分の身体がおこなっていること/おこなってしまっていることに気づく技術を手にいれた。
もっとも大きな気づきは、自分はピアノの演奏を頭と手でしかおこなっていなかったのだな、ということだ。
身体全体の一部として頭も手もある。
体全体と連動してその質が一定以上にたもたれているとき、自分の音が変わる。
そのことをアレクサンダー・テクニークが教えてくれた(教えてくれた安納献先生、ありがとう)。
そのあと、板倉克行というピアニストに出会った。
彼はフリージャズの大家で、どのようにピアノを弾けばいいのかを、私にあらためて気づかせてくれた。
弾きたいように弾けばいいのだ、ということをご自分の身体でもって教えてくれたのだ。
私はさらに自由になれた。
最近、韓氏意拳という武術に出会った。
ここではさらに精緻に、驚くほどの緻密さをもって、自分の身体の声を聞く。
これはまだ始めたばかりで、まだまったくできないし理解もしていないが、この方向性に自分のオリジナリティを発揮するための有力な手がかりがあることを確信している。
先日来、ピアノを弾くたびに、身体の声を懸命に聞こうとしている。
まだかすかにしか聞こえてこないが、たしかに私の身体は私の浅はかな知識や技術を超えてなにかを私に伝えようとしている。
板倉さんは現在、事故で入院中で、リハビリをされている。
一日も早い退院と復帰を願って、昨日は中野〈Sweet Rain〉で応援ライブをおこなった。
私がピアノを弾くライブの次の機会は、7月14日(日)夜の下北沢〈レディ・ジェーン〉での「ののみずしゅんライブ」となる。
詳細はこちら。