2013年7月26日金曜日

文化芸術作品は社会の共有文化財産にしよう(著作権の話)

以下に書くことはちょっと極端なかんがえかもしれないので、あくまでひとりの著作者の私見として読んでいただきたい。
著作権もしくは著作使用権の話。

TPPの交渉において著作権の期間延長の話が出ている。
詳しいことはネットや新聞記事などに出ているのでここでは書かないが、ようするに法律によって保護される著作権の期間を、原著作権者(作者)の死後50年から70年以上へとのばすように、という外圧の話だ。
外圧だけではない、日本国内でもそれに賛成する向きがある。

私は反対だ。
そもそも、著作権というものの存在そのものに、あまり力点を置きたくないと思っている。
私は小説や音楽の著作者であり、法律によって保護されている著作権がもたらすのは、著作使用権による収益だ。
なのにそれを軽視するとはなにごとか、とみなさんはかんがえるかもしれない。
私のかんがえはつぎのとおりだ。

著作権というのは著作者が自分の著作物に発生する権利によって生活できたり、製作をつづけていけるようにする、という意味合いがある。
が、物流とマスメディアが発達したことで、ひとつの著作物が莫大な利益を得ることがしばしば起こる。
ときにそれは、著作物を製作した労力をはるかに超えて、一著作者の生活をまかなう利潤をはるかに超えて、莫大な利益を生むことがある。
そのことによって、著作物はその存在自体が一種の「利権」となるのだ。

利権によってうるおうのは作者ばかりではない。
その利権を利用して利益を得ようという者が出てくる。
たとえばディズニーを見てみよう(ディズニーに個人的な恨みはないが、あくまで一例として)。
彼が作りだしたアニメやそのキャラクターは、彼が死んだあとの現在も莫大な利益を生みつづけている。
もちろんそのことによって多くの人が娯楽という利益を享受できていることも確かだ。
しかし、この利権構造を文化芸術の分野において強固に主張するのは、作者としていかがなものか、と私は思うのだ。

文化芸術作品は公共物であり、社会の共有文化財産としてひろくだれにでも利用できるようになっていることが望ましい、と私はかんがえている。
たとえば私が朗読公演で井伏鱒二の「山椒魚」を使いたいと思っても、これは著者の死後50年を経過していないので、使用許諾を得なければならない。
井伏鱒二の著作権の管理はだれがおこなっているのだろう。
それを調べなければならないし、まだ出版されている本なので出版社にも許諾を求めなければならない。
出版社には著作隣接権(編集や出版についての権利)というものがあるのだ。
ようするにお金を払わなければならない。
私の朗読公演は有料ではあるが(無料公演やボランティアの場合は無償での使用許諾がおりることがまれにある)、収益はまったく多くないので、著作使用料金を払うことなどできない。
つまり、私は井伏鱒二の作品を公演で使えない、ということになるわけだ。

ある文化的な作品が、金銭的な理由で利用できない、という事態があるのは、その社会にとって大変不利益なことではないか、と私はかんがえる。
井伏鱒二も自分の作品がより多くの人に届くことを、あの世から願っているのではないか。

もうひとつ例を出す。
これは著作権とは別の話だ。
絵の勉強をしている中学生なり高校生が、有名な画家の展覧会に行って、絵を見て勉強したいと思ったとする。
しかし、この国では大きな絵の展覧会はたいてい、かなり高額な入場料が設定されている。
そのために彼は展覧会を見ることができない。
これって、社会の損失じゃね?
展覧会の収益は開催者や作者を潤わせるかもしれないが、文化をもっとも享受すべき人たち、すなわちこれから自分たちが文化芸術を発信していく側になろうとしている人たちを阻むものとなる。

私が発信している情報は、すぐれた先人や才能ある人々と比すべきもない稚拙なものだが、それでもいくばくかの社会資産となりうるかもしれない、何人かの役に立つかもしれない、次世代に伝えるべきいくらかのこともふくまれているかもしれない、と思っている。
だから、私の著作物に関しては、すべて、基本的に、自由に使ってもらいたいと思っている。

私が書いたテキストをだれかが朗読してくれる。
それを聴いた人がいくらかでも楽しんでくれたり、心が軽くなったり、なにかをかんがえるきっかけになったり、世界の見え方がほんのちょっぴり変わったりしたら、こんなにうれしいことはない。
力がなくて多くの人に伝えることができていないが、それでも著作使用権を開放していることで少しでも多くの人が私の作品を読んでくれたり、利用してくれればうれしいのだ。

すべての表現者が自分の作品、著作物を社会にむかって開いてくれればいいと思っている。
では、著作者はどうやって生活していけばいい? という問いがかならず立てられるだろう。
それについては私はひとつの明確な答えを持っている。
著作者、表現者、芸術家はどのようにして生活の糧を得ればいいのか。
これについては、項をあらためて書くことにする。
(つづく)