2013年7月27日土曜日

著作者、表現者、芸術家はどのようにして生活の糧を得るのか

著作権の話のつづき。
著作者が著作権を手放し、自分の作品を社会的共有資産として開放するとき、著作者の製作や生活のための経費はどのようにまかなったらいいのか、という話。

共有資産を生産しつづけている人をその社会が必要とするとき、著作者はそこに生活の場がある。
著作物を対価に変えるのではなく、著作物を生産するその過程そのものを社会に伝えていくという仕事がある。
著作物は共有資産として無償でシェアし、だれもが文化的・芸術的恩恵を受けられるようにする。
一方で、そのような著作者が増え、文化芸術活動が進展していく社会でなければ、その社会は貧しく縮小していくばかりだ。
日本を含む世界の多くの地域が、現在、経済発展をしている一方で文化的貧困に見舞われているように。

貧しくなる、というのは、もちろん物質的な意味ではない。
物質的豊かさで人のしあわせが保証されるものでないことは、いまやだれもが知っている。
そうではなく、人と人のつながりがあり、思いやりや共感があり、子どもやお年寄りや弱者がつらい思いをすることなく生活できて、笑顔の絶えない社会。
だれもが希望を持ち、幸福を実感できる社会。
そういう社会が人間的な意味での豊かな社会ではないだろうか。
それをささえる重要な要素のひとつが文化芸術の豊かさであり、深い想像力と知性を持てる人々の存在だ。

こういう社会のために、どうしても文化芸術の担い手がたくさん必要になる。
それは特別な才能がなくても、だれもがなることができる(この点についてはまた項をあらためなければならない)。
そのために、いま活動している著作者は、社会に自分の活動を開き、思想と表現の方法を伝える場を持ちたい。
その場を必要とする人々で彼を支えればいいのだ。
そのことで著作者は生活ができ、また製作を継続できる。
著作者も「孤高の芸術家」を気取るのではなく、人々と交流し、現在と次世代の担い手へと自分の文化資産を伝えていく努力をしていく。

社会に自分の製作の現場を開放し、表現の場を人々に支えてもらうことによって、著作者は知的生産物をすべての人に無償でシェアする。
著作権という利権は不要だ。
著作物にたいして敬意が払われることは必要だが、それを利用することについて対価は必要ない。
だれもがひとしく自由に利用・閲覧できる。

すべての人がひとしく、無償で、文化芸術資産を共有できることで、その社会はさらに豊かになっていくし、次世代の文化芸術の担い手が育っていく。

これが私のかんがえる理想だ。
「理想」といっているけれど、夢物語とは思わない。
これはいまの厳しい資本主義経済、効率至上主義社会、グローバリゼーションのなかでも実現可能なことだと思っている。
そこからすこしだけ脇にそれる必要はあるけれど。