大脳皮質を発達させてしまったヒトという動物は、その「思考」にじゃまをされて腕一本動かすにも、声ひとつ出すにも、ぎくしゃくと非効率的になることがある。
「右手をあげてください」
というと、たいていの人はぎくしゃくと手をあげる。
頭で「手を上にあげる」とかんがえ、そのイメージを脳内に思いうかべてから動こうとするからだ。
しかし、自分の上のほうになにかぶらさがっていて、それをなにもかんがえずに自然に取ろうとしたとき、動きはのびやかになる。
頭でかんがえないときに、ものを取ろうとして上にあげる手の動きに全身が参加し、無理のない自然な動きになる。
言語活動はその「ぎくしゃく」の最たるもので、なにをしゃべろう、とか、こう読もう、とか、まずは頭でかんがえてからそれを口にする。
言語コミュニケーションにつきまとうぎこちなさはそこに原因がある。
しかし、頭でかんがえることなく、声や言葉が自然に出てくるとき、それはとてものびやかで豊かな表現となる。
なにかにふと感動したとき思わず出てくる声。
知り合いに出会ったときになにもかんがえずに口をつく「こんにちは」のことば。
だれはばかることなくひとりで好きな詩の一節を口ずさむときの開放感。
現代朗読ではテキストの意味ではなく、この文字記号から導きだされうる自分の声=音声を、のびやかに表現することをめざす。
そのためには、声を発する「運動」に自分の全身が参加していることが必要だ。
しかもそれは頭でかんがえておこなうものではなく、ごく自然に全身が「発声」という運動をささえ、身体全体にのびやかさがあるなかで表出してくるものであることがのぞましい。
などと書くと非常に抽象的なことのように思えるかもしれないが、実際にはさまざまなエチュードをとおしてその感覚を体認していってもらうのが、現代朗読の方法なのだ。
私はそのエチュードを発明する専門家として現代朗読に参加しているといっても過言ではない。
この方法と体系はまだ始まったばかりだ。
ゼミ生やワークショップ参加者もまだ全員が体認できているわけではないだろう。
しかし、この方向性を持った表現集団がわっとひとつになって動くとき、そこにどのようなものが立ち現れるのか、楽しみではないだろうか。
私はとても楽しみだ。
現代朗読協会の総力戦といっていい公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」は7月27日(土)に開催される。
詳細はこちら。