2013年5月8日水曜日

だれかに会うとき私が見ているもの

photo credit: erin leigh mcconnell via photopincc

よく、
「だれかに会う(話す)ときはきちんと相手の眼を見なさい」
といわれる。
共感的コミュニケーションでは相手の眼「だけ」を見て話すことは推奨していない。

私の場合、だれかと会ったり話したりするときは、相手の眼も見るけれど、それ以外の部分もまんべんなく見る。
相手全体を見るといってもいいだろう。
相手の姿勢、呼吸、筋肉の緊張や弛緩の様子、声の調子、目線の動き、表情、そういったものをまんべんなく見る。
眼をこらして見るというより、遠方をながめるような視線でなんとなく全体をとらえるように見る。

肩が緊張していたりいなかったり、首がすくんでいたりいなかったり、呼吸が浅かったり深かったり、目線がキョロキョロしていたり落ち着いていたり、表情が明るかったり暗かったりよく動いたり動かなかったり、骨盤が立っていたり寝ていたり、背中がそっていたり丸まっていたり。
それらがたえず変化していたりいなかったり。
話しているあいだにも、変化が起こる。
初対面でも相手の身体全体からそうとうたくさんの情報は伝わってくるし、時間経過のなかでさらに膨大な情報がこちらにはいってくる。
もちろんその逆のことも起こっている。

共感的コミュニケーションをこころがけて話していると、緊張していた相手がしだいにリラックスし、やがては自分の大切にしていることについて話してくれることがある。
そういうとき、相手の身体の筋肉の緊張がとれ、呼吸が深くなるのがわかる。
相手がそうなったとき、はじめて、私も自分のことを相手に伝えることができる。

いくら話しても自分のことを伝えてくれない人もいる。
こちらのスキル不足ももちろんあるが、極端に怖れていたり、依存体質であったり、あるいは病気の領域までこころを病んでいる人はむずかしい。
そういう人には、もし可能なら継続的に音読療法を受けてもらいたいと思うが、病院に行ってくださいというしかない人もなかにはいる。

しかし、たいていの人は、こちらがその人の大切にしているもののことを聞こうという興味をもって接するとき、つまり相手の全体を見ながらそのなかにある価値を見ようとするとき、やがてこちらにこころを開いていってくれる。
相手が「なにを」いうか、よりも、相手が「どのように」いうか、を見るのだ。
相手が伝えようとしている「内容/情報」より、その伝え方を見るほうが、相手とのつながりを作るのに役立つ。