2013年5月1日水曜日

意味をなぞる朗読はなぜ伝わらないのか

現代朗読では「読み手がその読み方をテキストに指示される/縛られる」ということを注意深く排除している。
その理由について、以下にのべたい。

テキストだけでなく、「作者」やある特定の「作品」に「読まされる」「縛られる」こともある。
これを現代朗読ではややユーモラスに「羅生門の呪縛」と呼んでいる。
どんな人でも芥川龍之介の『羅生門』という小説を朗読しようとするとき、その脳裏には雨がじとじと降りしきる陰鬱で荒廃した印象の羅生門のイメージが浮かび、そのイメージにとらわれたまま陰鬱な調子で読もうとする。
これはほとんど朗読経験のない人ですらそうなる。
ましてや、朗読経験が豊富な人はまったくその呪縛のなかにあることがほとんどといっていい。

ここでちょっとかんがえてみたいのだが、いったいあなたはだれから「そのように読まねばならない」と命じられているのだろうか。
『羅生門』だろうが『桃太郎』だろうが『ごんぎつね』だろうが、あるいは『金太の冒険』であろうが、読み手はあなたなのだから、あなたの好きなように読めばいいのだ。
それがなぜか、「このように読まねばならない」という呪縛にだれしもがおちいってしまう。
この呪縛はだれあろう、あなた自身がそうしているのだ。
つまり、自分で自分にそのように読まねばならないと命じてしまっている結果、無限に自由な世界に背をむけてしまっている。

「大きな木が丘の上に立っています」という文章を読むとき、あなたの脳裏にはその風景が反射的に浮かび、そのイメージをなぞって読もうとしてしまう。
「おお~きな木が……」と、まるでその木の大きさを手で示すときのように、声でなぞって示そうとする。
そのとき聴き手に伝わるのは、大きな木のイメージであるどころか、大きな木をなぞって表現しようとしている「イメージの説明に縛られたあなたの(声の)動作」である。
現代朗読でもっとも伝えたいこと、つまりあなた自身の身体性や存在はその背後に隠れ、伝わることが阻害される。

意味やイメージをなぞることをやめてみるとどうなるか。
「大きな木」という意味は当然相手に伝わるのだから、相手のなかには相手なりの「大きな木」のイメージは形づくられるだろう。
そのイメージをこちらからわざわざなぞって指示する必要はない。
大切なのは、あなたがその言葉をどう発音しているか、どのような身体性でもって伝えようとしているのか、ということだ。
それはテキストの持つ意味情報とは別の次元で存在する。
聴き手は言語思考の部分では意味を受け取ってはいないかもしれないが、読み手がどのような人なのか、読み手がテキスト情報以外にどのようなことを伝えようとしているのか、無意識の部分でその膨大なメタ情報を受け取っている。
その次元での情報伝達の精度をあげることが、真の朗読表現者が取り組むにあたいすることではないか、と私はかんがえている。

現代朗読を基礎からじっくりまなべる全6回シリーズのワークショップが来週土曜日から始まる。
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