現代朗読の体験講座や基礎講座、ライブワークショップなどで初めてやってきた人は、私が「朗読はやらない」というとびっくりする。
そのかわり「演出する」というと、ちょっと安心した顔になる。
しかし、「演出といってもこちらからなにか指示することはあまりしない」というと、また怪訝な顔をする。
一般に演劇にしてもなにかイベントを作るにしても、演出家がいれば出演者はその演出家の指示にしたがって動き、演出家のかんがえたイメージにそったステージを体現しようとする。
出演者は演出家の意図をくみとり、できるだけ忠実にイメージ実現に貢献しようとする。
演劇の場合、演出家の指示は絶対的である、というような劇団もある。
現代朗読では——すくなくとも私は——自分のイメージを出演者に押しつけることはない。
私がかんがえる演出とは、自分のイメージやアイディアを出演者に指示したり押しつけるのではなく、出演者ひとりひとりが持っている無限の表現性を引きだすお手伝いをすることだ。
朗読者はそれが初心者であれ熟練者であれ、自分でも気づいていない表現の可能性を無限に持っている。
自分がなぜ自身の可能性に気づけないかについては別の話なので、あらためて書きたいと思うが、とにかくそういうことなので、だれかがアドバイスしたり、ある仕掛けのなかで自分で気づいていってもらうことが有効だ。
自分がどれだけ自由であり、どれほどユニークな存在であるか、それに気づいてもらうのが朗読における演出家の仕事だと思っている。
それに気づくことができたら、あとはステージの上でなにが起こるのかを楽しみに待つだけでよい。
実際、現代朗読のステージでは、いつも、奇跡のようなすばらしいことが次々と起こる。
それはたしかに、私と朗読者たちの共同作業の結果産みだされた奇跡なのだ。