朗読するとき、多くの人がこういうことをやってしまう。
その文章を書いた作家のイメージを無意識かつ反射的に思い浮かべ、みずからをそういう身体性に近づけようとしながら読んでしまう。
先日のゼミではチエちゃん(20代なかば・女性)が夏目漱石を読んだのだが、その読み自体は非常にしっかりしていて、伝達技術的にはクオリティの高いものだった。
が、彼女もまた無意識に「夏目漱石になろう」としていて、つまり自分の本来の声より低く落ち着いた音程、かつ、年齢も上にイメージされるような声になっていた。
それは身体がそうなっているからなのだが、自分でそういう身体つきになってしまっていることを多くの人は自覚していない。
私はチエちゃんに何歳なのかを尋ね、その年齢で読んでみて、とまずお願いした。
それからつぎにかんがえてもらったのは、チエちゃんの実際の年齢は25歳かもしれないが、その身体のなかにいる自分自身の意識としての年齢は何歳なのか、ということだ。
私もそうだが、私たちはしばしば、自分の実年齢より若い年齢を精神的に生きている。
なにをやるかによってもそれは変化するが、なにか表現しようとするとき、たとえば私の場合、14歳くらいの少年にかえってしまうことがある。
あるいは20歳くらいの青年とか。
実際には56歳なのであるが(これはいわなくてもいいか)。
チエちゃんの場合、19歳くらいの自分でやりたいということになり、それで読んでもらった。
読みがまったく変わり、イキイキとした若い女性の姿、つまりチエちゃんが真に生きている姿がそこに立ちあらわれてきた。
とくに驚くことではない。
なぜなら、チエちゃんは自分の真年齢を思いだすことで、身体性を変化させたのであって、その結果出てくる声や表現も変わっただけのことだからだ。
筆者になろうとするだけでなく、小説の登場人物になろうとしたり、あるいは作品全体のイメージがかもしだす古色蒼然とした身体性になってしまったり、朗読者はいろいろなことをしてしまう。
自分がなにをしてしまっているのか、この身体性の変化がどこからもたらされたものなのか、注意深く観察し気づいていけることがのぞましい。