2011年5月9日月曜日

「マーケット」だけが世界ではない

私たちは現代生活をいとなむために、なんらかの商業活動をおこなっている。
所得のために働き、住んだり食べたり着たり学んだりするためにお金を払う。
こういう経済活動というか、お金や物品や情報の循環は、産業革命以降、しだいに大きな商業経済(マーケット)を形成してきた。とくに近年は交通手段や情報通信の発達によってとくに規模が大きくなり、地球全体を覆い包むようになった。
そのせいで、えてして多くの人が、自分の生活そのものがマーケット経済のなかでしか存在していないように勘違いしてしまう。そしてマーケット内で価値判断できないものは無価値だと思いこんでしまう。

私たちの生活は、よく見てみると、マーケット経済に関係があるものと、あまり関係がないもの、そしてまったく関係がないものとでなりたっている。
会社に勤めて給料をもらうのは、もちろんマーケット内での経済活動だ。自動車を作って売るのもそうだし、商品を流通させるのもマーケット内でのできごとだ。
では、主婦の家事はどうだろう。これも経済行動だろうか。
そうであるとも、そうでないともいえる。

家事労働をマーケット経済の尺度で計ることはできる。
さまざまな試算が提示されているが、育児、洗い物や洗濯、掃除、食事の支度といったものを、労働単価として換算し、家事労働を金銭価値に置きかえることはできる。それはひとつの目安としての数字ではある。
しかし、多くの主婦は経済行動として育児や家のことをやっているわけではない。子どもを育てることに自分の多くの労力をつぎこむことに理由はない。ただ自分の子どもを愛しているからだ。
家事をこなすのもそうだろう。家庭を愛し、夫を愛するゆえに、とくに理由づけなどしなくても毎日家事をおこなう。経済活動だと思ってやっている人は、なかにはいるかもしれないが多くはないだろう。

人の行動だけでなく、マーケットのなかになくても私たちにとって大切なものはいくらでもある。
たとえば、春になったら咲く桜や花はどうだろう。木々や草花は多くがただそこに咲いているのであり、経済システムのなかには組みこまれていない。それらの世話をする人も、労働だと思ってやっているわけではない。ただ好きだから、愛しているからやっているにすぎない。そして私たちはそれを愛でて、豊かな気持ちになれるのだ。感謝ゆえに道ばたの草花にお金を払ったりはしない。
つまり、マーケットとは関係がない。

芸術表現はどうだろう。
ここまで読まれた賢明な読者ならもうおわかりだろうと思う。
人が「表現したい」「自分を人に伝えたい」「だれかと共感し、つながりたい」という欲求は、そもそも経済活動とは関係のないものだ。もともと絵を描いたり、歌を歌ったり、踊ったり、だれかに本を読んで聞かせたりといったことを、最初からお金のためにやる人はいない。
が、どんな行為でも、そこに「需要」が生まれ、価値基準ができたとき、現代社会ではマーケットが生まれる。
CDが何枚売れるか、ライブに何人集客できるか、どれだけ視聴率が稼げるか、どれだけ部数が出るか、といった金銭的物理的基準で価値の優劣が決まるのがマーケットだ。それが原理だ。
すると困ったことに、そもそもは経済活動とは関係のないはずの表現行為ですら、マーケット価値を得る(お金を稼ぐ)ために行なうものが出てきて、またいくらかがそのとおりに成功する者が出てくるのだ。
また、お金が稼げない、人を集められない表現は価値のないもの、という錯覚におちいっていく。表現側だけでなく、オーディエンス側もそのような価値基準を持つ。
そうやって人々は、なんのために表現活動をしているのか、なんのために芸術に接するのか、見失っていく。

ここでもう一度、マーケットのなかにはないけれど、価値がないわけではないばかりか、とても大切なものがたくさんあることを思い出してほしい。
芸術表現はそもそもそういうもののひとつなのだ。春に咲く桜の花とおなじだ。
現代社会が作りだしたマーケットという狭小な経済社会構造よりも、私たち人間が生きるのはもっと広大な世界だ。その世界では経済価値はないけれど大切なものがたくさんある。マーケットはその世界のほんの一部構造にすぎない。
もちろん私たちは現代社会のなかで生きていかなければならなので、なんらかの形でマーケットに関わらざるをえない。まったくマーケットと無縁で生きていくことはできない。が、それは私たちの世界のごく一部であり、その世界の価値基準に捕われることはとても狭小なことであることを、いつも思いだしたい。