2011年5月30日月曜日

「読み聞かせ」の本質的な目的

 二十代のなかばから朗読のライブパフォーマンスや公演をおこなうようになり、近年は朗読や音読の指導、演出、ワークショップなどで多くの地域や学校に行く機会が増えました。しかし、読み聞かせの指導に関わるようになったのは、実をいえば最近のことなのです。
 ほんのここ数年のことなのですが、そういう私が読み聞かせについての本を書こうと思ったのは、ある危機感を覚えたからです。
 読み聞かせの現場でいくつかびっくりするようなことに遭遇しました。
 私に筆をとらせるきっかけを作ったいくつかのエピソードのうちから、ひとつの例をあげてみましょう。
 その小学校では月に一回、給食後の昼休みの時間を利用して、お母さんたちの読み聞かせのグループが交代で読み聞かせをしています。図書室をちょっと広く片付けて、どの生徒も自由にそこに来てお話を聞けるようになっています。一年生から六年生までまちまちの年齢の学童が五十人以上、ときには百人近くもやってきて、とても盛況です。
 時間が限られているので、一回にふたりのお母さんがふたつのお話をそれぞれ分担するということです。
 私はそれを見学させてもらったのですが、見ているうちにとても奇妙なことに気がつきました。読み聞かせをしているどちらのお母さんも、絵本を読んでいる顔を決して子どもたちのほうに向けようとはしないのです。
 とても変な印象を受けた私は、終わってから読み聞かせグループの皆さんにそのことを訊いてみました。返事はびっくりするようなものでした。
「区の読み聞かせ講座で講師の先生からそのように教わった」
 というのです。
 具体的には、読み手のお母さんが絵本から顔を子どもたちのほうに向けると、子どもたちの注意も読み手に向いてしまう。そのため、絵本のなかの世界から注意がそれて集中できなくなるのでよくない、というのです。そのために読み手は決して子どもたちの顔は見ずに、ただ絵本だけを見て読むように、と教わったというのです。
 区の講師の方がそのような読み聞かせの方法を多くのお母さんがたに教えているのだとしたら、本当に驚くべきことだと思います。

 読み聞かせはなんのためにおこなうものなのでしょうか。
 家庭内でお母さんやお父さんや家族が、まだ文字が読めない小さな子どものために本を読んで聞かせる、ということがあります。これが読み聞かせの原型、基本形ではないかと思います。なぜなら、これはごく自然な行為で、親が子どもを大切に思うところから始まることだからです。食事をあたえたり、衣服の世話をすることとおなじことです。
 つまり、自然な愛情表現であり、大人の側から見れば、
「この子を愛している。大切に育てたい。よい子に育ってもらいたい」
 という保護と養育のニーズから生まれた行為です。
 子どもの側から見れば、自分が愛されており、安心できる場に保護され養育されているということが確認できる行為です。
 ここで重要なのは、
「なにが読まれているか」
 ではなく、
「どのように読まれているか」
 なのです。
 どれだけ子どもに役に立つ内容の本であったとしても、それがおざなりな愛情でぶっきらぼうに読まれたのだとしたら、子どもはどう感じるでしょうか。たとえお母さんが自分の好きな絵本を読んでくれたとしても、ケータイ電話を片手にとか、テレビを見ながらとか、家事の合間にしかたなく、といった風だとしたら、子どもはどう感じるでしょうか。
 たしかになかにはこういうお母さんもいます。家事が忙しいあまり、仕事が忙しいあまり、子どもにきちんと向き合い、そのためだけに時間を確保するのが難しい。もし確保できたとしても、心はもう自分の次の用事のことに向けられていて、読み聞かせの際もきちんと子どもに向かい合っているわけではない。
 大人がそういう態度でいるとき、子どもはしっかりとそのことを感じています。論理的には理解していなくても、無意識や全身でそのことがわかっています。
 読み聞かせの時間は、子どもにとって、自分が親から、家族から愛されており、安心・安全の場にいることを確認できる大切なときなのです。
 それがまず、読み聞かせという行為の前提にあると、私は考えています。それは学校でもおなじことです。

 子どもがすくすくと豊かな心で育つには、安心できる安全な場所と、大人からの無償の愛情が不可欠です。これらのひとつでも欠けるとどうなるか。だれでもたやすく想像することができるでしょう。
 子どもたちにはいろいろな機会で大人からの愛情と質のよいつながりを持つ必要があります。核家族化が進み、また仕事に忙殺される親が増えている現代社会において、家庭だけでは不足しがちのサポートを、学校や地域の活動のなかでおこなう必要が出てきています。その活動の一環として、読み聞かせの運動もあります。
 ここで最初のエピソードに戻ります。
 区の読み聞かせ講座の講師が教えていたことは、
「絵本の内容だけの子どもたちを集中させる」
 ための方法でした。
 たしかに絵本の内容は大切だし、なかにはぜひ子どもたちに聞いてもらいたい、見てもらいたいすばらしい作品もあるでしょう。しかし、それは大人の側の都合です。
 大人はいろいろな都合で、たくらみをもって読み聞かせをしてしまいます。動物や植物の名前、あるいは英単語などの有用な情報を与えたい。教訓的なストーリーを聞かせたい。複雑な情報を処理できるようになってほしい。など、など。
 そのたくらみは、残念ながら、子どもたちには見抜かれています。自分が子どもだった頃のことを思い出してみてください。大人がなにかたくらみをもって自分になにかしようとしてきたとき、思わず身構え、警戒した経験はありませんか? そして大人に対する不信感をつのらせていき、中学生のころには決定的に親を信じられなくなっていた。それはなにも思春期のせいばかりではなかったでしょう。
 現代はあまりに、子どもに「学習効率」や「成長効率」を求めすぎます。そのために犠牲になっていることのなんと多いことか。子どもはもっとゆっくりと、愛情に包まれて成長すればいい。たとえめまぐるしい現代社会のなかにあっても。いや、むしろ、めまぐるしい現代社会のなかにあるからこそ。

 読み聞かせの時間に子どもたちが受け取るのは、表面的には絵本のストーリーや絵などの楽しさです。夢中になってそれを受け取っています。しかし、それ以上に子どもたちは多くのことを受け取っているのです。大人が「どのように読んでくれているか」という情報です。
 それは大変豊かなな情報です。人間のコミュニケーションにおいては「その言葉がどのように発せられているか」が情報のほとんどを占めているといっていいほどです。人は無意識にその情報を渇望し、全身で受け取ります。子どもたちも同じで、「なにが読まれているか」よりも「どのように読まれているか」という情報をたくさん受け取っています。
 絵本から目を離さず、自分たちのほうをまったく見てくれない大人からは、どのような情報を受け取るでしょうか。
 逆に、絵本を読みながら、しばしば自分たちのほうを見て、「聞いてくれているか」「楽しんでくれているか」「退屈している子はいないか」気にしてくれている大人からは、どのような情報を受け取るでしょうか。
 読み聞かせにおいてもっとも大切なことは、読み手である大人があふれんばかりの愛情をもって「絵本を読む自分自身」を子どもに伝えようとすることです。そのことで子どもはお母さんや大人たちとのつながりを確認し、安心し、豊かなものを受け取ってゆっくり成長します。
 そのとき、大人の側の都合やらたくらみは邪魔になるばかりです。子どもに有益な情報を与えてやろう、この歴史のことを知っておけば学校の成績に有利になる、英語を早くからおぼえさせよう、悪い話は聞かせないでおこう、そんなたくらみは読み聞かせという豊かなコミュニケーションの場に持ちこんではいけません。
 本当に大人が子どもたちを包みこんで、自分自身も楽しみながら質の高いコミュニケーションを取ること。お互いに心を開いて、物語と、物語を読んだり聞いたりしている自分たち自身を楽しむこと。これが読み聞かせの本質的な目的だと私は考えています。