なにか見たり聞いたり、ものごとに接したりしたときに、違和感を覚えることがある。
「なにか違う」という感じなのだが、それはたいてい、私の場合、心の奥底に沈んでしまって、結果的にスルーしてしまうことが多かった。
だれかが「いい」といっている曲や絵や映画を見たとき、たしかに「いい」んだけど、どこかに違和感が残る、ということが多かった。また、話題の人物がテレビなどでもてはやされているのを観たようなときも、違和感を覚えることがしばしばあった。
私は若いころから小説を書いており、そういう違和感にもっと敏感であるべき人間だったのだが、さまざまな理由で「違和感をスルーする」ことに長けるようになっていた。
私がふたたび自分のなかの違和感に向かい合いはじめたのは、商業出版の世界から遠ざかり、音楽や朗読の世界に復帰し、そして小説だけでなく詩も書きはじめたころからだ。それはもう40代をずっとすぎていた。
違和感はどこからやってくるのだろう。
古武術の世界では、自分の脈を調べることで、迫り来る危機を察知する、という方法がある。
武術家の甲野善紀さんから聞いた話でこういうのがある。昔、何人かで旅をしていた侍が、雨に降られ、ようやく宿にたどりついた。旅装をとき、一息ついてから、いつものように皆が脈を調べた。すると全員の脈が異常を示したのだ。
そこで、侍たちはふたたび旅装をととのえ、宿を出た。その直後、宿の後ろの山が崩れ、宿は土砂にのみこまれてしまったというのだ。
私が考えるのは、こうだ。彼らはおそらく、宿に入るときに、すでに微細なサインを受け取り、無意識で災害の徴候を感じていたのだ。それが彼らの脈を乱れさせた。
無意識を読みとることは難しいが、無意識から引きおこされる身体反応を読みとることは可能だ。
違和感は無意識から顕在意識へのサインである。
人間は非常に優秀なセンサーのかたまりであり、日常生活においてもさまざまな微細なサインを無意識で受け取っている。それらは無意識下で情報処理されている。
いくつかの徴候があわさって、危険を察知したり、だれかの嘘を見抜いたりしている。が、無意識下でおこっていることを顕在意識ではなかなか認知できない。しかし、それらは違和感となって自覚できたり、身体的徴候となって顕在化することがある。
現代人は顕在意識でものを考えたり、計算したり、計画したり、といったことは得意だが、わずかな徴候を敏感に感じとることは不得意だ。どんどんセンサーが鈍感になっている。
しかし、人間が持っているポテンシャルは思ったより大きい。
どうせ生きているなら、潜在能力を生かしきりたいものだ。