2010年7月7日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.8

もともと子どもの時から本が好きで、たくさん読んでいた。書くことも好きだった。小説書きの真似事を始めたのは高校生のころだった。短い話を書いては同級生に見せていた。バンドマン生活のあり余る暇を利用して、私はかなり長いものを書きはじめていた。

中学以降、SF小説に熱中していたので、書くものもSFが多かった。とはいえ、いずれも習作で、完成にいたるほどのしっかりしたものは書けなかった。書き方もまったくわかっていなかった。が、いずれは自分の本が出せるといいな、ぐらいの漠然とした望みができてきていた。

バーテンダーの仕事に戻ると小説書きを続けられそうにはなかった。そこで私は、一大決心をした。思い切って生まれ故郷に帰ることにしたのだ。都落ちとはまさにこのことだが、私自身はそれほど深刻には感じていなかった。割合気楽に福井の田舎に帰ることを決めてしまった。

25歳の夏だったと思う。私は京都を引き上げ、福井の田舎に戻った。実家の隣がちょうど空き家になっていて、父にそこを買ってもらってそこに住むことになった。実家にあったピアノをそちらに運びこみ、家でピアノ教室をやることにしたが、なかなか生徒は集まらなかった。

しかし、田舎町にもピアノ教師は何人かいて、その人たちがお互いに生徒をやりくりするためのグループを作っていた。全員女性なので、産休とか育児とか、そういったときのために助けあったり、生徒募集を協力してしあったりといったことを、集まってやっていたのだ。

いまになって思えば、女性が作るコミュニティはすばらしい。私もそれに助けられたのだ。ピアノ教室を始めたらすぐに、その女性のピアノ教師グループから声をかけていただき、私もそれに参加することになった。そして、遠方への出張教室の仕事をもらうことになった。

いわゆる「僻地」の村にはピアノ教師がいないが、子どもにピアノを習わせたいという父母のニーズは高い。そこで、週に一度、村の商工会館の一室を借りて、まとめてピアノ教室をやるのだ。会館の一室には、そのためにかどうか、アップライトのピアノが備えつけてあった。

延べ30人近い生徒がいて、私はその子たちを一手に引きうけることになった。下は3、4歳の幼児から、上は高校生までを、丸一日かけてひとり30分ずつのレッスンをおこなうのだ。私は子どもが好きで、この仕事はハードだったが楽しかった。そして収入確保ができた。

そうやって田舎のピアノ教師生活でもなんとかやっていけるめどがついた私だったが、それだけではさすがに生活費には足りなかった。そこで、近所の本屋が副業としてやっていた学習塾のようなところへもアルバイトに出かけていった。こちらも子ども相手の仕事だった。

生活はまだまだ大変だったが、田舎の生活には余裕もあった。暇を見つけては、私は街歩きを楽しんだ。福井に〈Space B'〉という名の変わったギャラリーがあって、現代美術の展示を定期的にやっていた。物珍しくて、私は時々そこの展示を見に行っていた。

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