2010年7月15日木曜日

宮崎駿の iPad に関する発言が波紋を呼んでいる

宮崎駿がスタジオジブリの発行する冊子『熱風』のなかでのインタビューで、iPad について発言していることが大きな波紋を呼んでいる。
彼は iPad を持って説明するインタビュアーに対して、このようなことをいっている。
「そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色悪いだけで、僕には何の関心も感動もありません。嫌悪感ならあります」
「そのうちに電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね」
「一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人はおそらく沢山いるでしょう。60年代にもラジカセに飛びついて、何処へ行くにも誇らしげにぶら下げてる人たちがいました」
「新製品に飛びついて、手に入れると得意になるただの消費者に過ぎません。あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい」
このような発言を掲載する『熱風』の編集部もすごいが。
この発言に対して、国内外からさまざまな反響が出ている。
いちいち紹介しないが(「宮崎駿 iPad」で検索すればいくらでも出てくる)、なかにはこんな意見もあった。
「小学生のとき、シャープペンを使おうとしたら、鉛筆を使えと強要されたことを思いだして悲しくなった」

まず私の意見を書いておくと、私はこの宮崎駿の発言に対して大いなる共感を持って受けとめている、ということだ。
その理由を書く。
宮崎駿でも大江健三郎でもだれでもいいが、第一線でものを作りつづけてきた者が「ある変化」に対して一見「保守的」ともとれる発言をすることはよくあることだ。
たとえば、小説家の世界では、手書きの原稿用紙からワープロ/パソコンでの執筆へのシフトに対して、「文体が変わる」あるいは「なにかが決定的に変わる(損なわれる)はずだ」といって抵抗した作家がおおぜいいた。いまでもいる。
また、最近では紙に印刷された活字本から電子書籍へと活字製品が移行していく流れに対して、危惧を表明し抵抗している作家や版元は多い。
デザインの仕事が紙から PCソフトへ、建築設計の仕事が設計用紙から CAD へ、といった具合に、あらゆるもの作りの現場で IT化の波が押しよせている。
IT化に限らず、こういうことはいつの時代にもあった。
もの作りの現場において、効率性や利便性をあげるためになにかあたらしい道具が導入されるとき、かならず抵抗が起きる。それはたんに「あたらしい道具」への嫌悪ということではない。
抵抗する者、とくに第一線で活躍している熟練者たちは、自分の作業の手順が効率性や利便性の名目で別のものに置き換わることで、「なにか大事なものが損なわれる」ことを知っているのだ。
効率や利便はかならず、なにかを犠牲にしておこなわれる。宮崎駿は「私には鉛筆と紙があればいい」といっているが、彼は紙の上で鉛筆を動かすことでしか表現しえない世界があることを熟知している。それをなにかに置き換えられることに本能的な嫌悪と恐怖を抱いているのだ。
私にはその気持ちがよくわかる。
しかし一方で、効率化と利便性を求める社会の大きな流れは、いまのところ止めることができない。宮崎駿がいくら抵抗したところで、iPad のような機器は普及しつづけるだろうし、鉛筆でアニメを描くような人は減少しつづけるだろう。もはや手書きで原稿を書く小説家がほとんどいないように。
それに、IT化でしか実現できなかったようなことがあることも確かだ。
世界は、時間と空間を大きく超える擬似的にではあるがコミュニケーションの手段を手に入れた。それはまだ発展をつづけている。このことが人と人のつながりを作り、リアルなコミュニケーションの質をも変えつつあることは事実で、それは落胆すべきことばかりではないように私には思える。
効率化によって得られるもの、失われるもの、その両方を正しく見据えておくことが、当面の私たちにはできることだろうし、そういう視野を持ちつづけたいと思う。