2010年7月13日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.12

地方局ではあるけれど、私はラジオやテレビ制作の現場に密接に関わるようになっていった。福井テレビではやがて、週に一回のレギュラー番組の司会者をやるようにもなった。これは毎週、地元や来県の著名人を相手にインタビューするというもので、大変濃い経験となった。

福井放送にはとても若い加藤幸という社長がいた。若いばかりでなく、革新的な考えを持っていて、また愛すべき性格の人でもあり、クリエイターたちと仲間意識を共有していた。彼は東京に出ていったクリエイターたちを福井に呼びもどしておもしろいことをやろうとしていた。

芸術方面にも理解が深く、音楽や美術やデザインなどのアーティストに手厚くあたっていた。川崎和男氏もそんな仲間のひとりだった。私もそのように敬意をもって扱っていただいたことが、いまとなってはとても懐かしい。加藤幸氏は若くして事故死してしまった。残念である。

加藤幸は先見の明があり、放送事業もいずれ、電子ネットワークの発展によって大きく変わるだろうと予測していた。それは実際、ずばりとあたることになるのだが、当時から先手を打とうとしていた。私は彼に、まだパソコン通信と称していたネットの試みをすすめてみた。

ニフティサーブや PC-VAN や日経テレコムなどのパソコン通信サービスが本格的に始まったのは、1985年ごろだった。私は田舎在住のハンディを解消するために、執筆や情報収集に積極的にネットを活用した。高い通信費を払っても田舎は生活費が安いので割が合う。

大手のパソコン通信サービスのほかに、BBSと呼ばれる小さなネットがたくさんあった。電話回線を使って通信していたので、地域内のBBSだと電話代が節約できていいというのもあった。福井県内にも工業情報センターや行政がやっているBBSがいくつかあった。

が、民間がやっている本格的なBBSはまだなかった。そこで私は加藤社長に持ちかけて「TAMPOPO」という名前のBBSを立ちあげた。いまでは考えられないほどコンピューターが非力な時代で、外付ハードディスクも容量が20メガ(ギガではないよ)とかだった。

回線も、ほとんどのBBSが1回線で、だれかが接続してしまうとその間は話中になって接続できなくなってしまう中、TAMPOPOは最初から3回線だった。つまり、チャットもできた。私はそこでシスオペ(司会者のようなもの)を務めた。

地元でパソコン通信愛好者たちの交流が生まれ、オフラインミーティングと称して飲み会やらピクニックが頻繁におこなわれた。その盛況ぶりは全国的にも有名になるほどだった。同時に私は全国ネットのニフティサーブでもシスオペを引き受けるようになった。

武井一巳氏が開設した「本と雑誌フォーラム」というニフティ内の一部署の運営を引き受けたのだ。こちらは地域BBSとはまた違ったおもしろさがあり、こちらも大変な活況を呈しはじめた。私は小説の仕事がだんだんおろそかになっていった。

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