豪徳寺の地下スタジオで稽古が重ねられ、2006年3月に港区の麻布区民センターで上演にこぎつけることができた。旗揚げ公演は成功し、私はそれまでにつちかってきた朗読の方法論に確信を得ることができた。これはあえて「現代朗読」と名付けた表現方法である。
ただの「朗読」と「現代朗読」とはなにが違うのか。独自に朗読研究をはじめてわかったのだが、ただの朗読(仮に従来朗読としておく)は本に書かれている内容をリスナーに伝えることに主眼が置かれている。ストーリーや作者の意図を最重要と考えて、それに沿った表現をする。
朗読者はあくまでストーリーや作者の意図を伝えるための「媒介者」であり、それ以上に自己主張することを嫌う傾向が多かった。が、私が思ったのは「ストーリーや作者の意図を伝える目的」だけならば、本をそのまま渡して読んでもらえばいいではないか、ということだった。
目の不自由な方のために本を代読する「音訳ボランティア」という仕事がある。詳しくうかがったことがあるのだが、読み手はなるべく感情を入れずに淡々と読むことが求められる。読み手の表現を入れることでテキストに特定のバイアスがかかってしまうのを避けるためだ。
コンピューターでテキストを読みあげるソフトも登場しはじめていた。これだと人の労力を使うことなく、しかもバイアス抜きの音訳ができる。しかし、当時はまだまだ未発達で、ソフトも高く、また活字印刷された本をスキャナで読みこみ、OCRでテキスト化する必要があった。
OCRソフトの精度がまだまだ低く、人の手で原文と突き合わせて修正していく作業がどうしても必要になる。結局、かかる労力はおなじかそれ以上になってしまうというわけで、まだまだボランティアによる音訳が多かったし、いまも多い。この音訳と朗読とどう違うのか。
本の内容や作者の意図を聴き手に伝えるという目的だと、朗読は音訳と区別できない。音訳は可能ならば機械音訳に取って代わればいいという話であって、便宜上いまは人間がやっている。では、人が文章を読みあげてだれかに伝えるという行為はどういう目的に基づいているのか。
私は開催するワークショップにおいて、朗読する人のニーズと意識についてつぶさな検証をおこなってみた。たとえば、漱石の『坊っちゃん』をワークショップの参加者のひとりに、やはり参加者たちに向かって朗読してもらう。「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかり……」
そのとき、すかさず私は質問してみる。「あなたはいま、みなさんに向かってなにをしようとしている?」ほとんどの人は『坊っちゃん』というストーリーをみなさんに伝えようとして読んでいる、と答える。さらに私は問う。「なんのために?」「物語を楽しんでもらうために」
「ではあなたは自分が『坊っちゃん』を朗読すれば、ここにいる皆さんが楽しんでくれると思っているわけね?」するとたいていの人は困った顔になり「まあ、そうですかね」と言葉を濁しはじめる。私は意地悪く追い打ちをかける。「だけどここにいる人は話の内容を知ってるよ」
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