2010年7月12日月曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.11

原稿用紙200枚しかない未熟な小説を送りつけてから1年半の歳月が経っていた。そして私はまったくあらたな生活を田舎でスタートしていた。覚えていないのもしかたがない。1985年の夏、私は東京の出版社に自分の本の打ち合わせのために行くことになった。

徳間書店の担当編集者は、あとで知ったことだが、西村寿行や夢枕獏を世に送り出した名物編集コンビで、石井さんと今井さんといった。最初に私の原稿を読んでくれたのは今井さんのほうで、デスクを見せてもらってわかったのだが、投稿や持ち込みされる原稿が山になっていた。

ところが私に連絡を取る段になってひと悶着あった。原稿を徳間書店に送りつけたとき、私は京都の住所と電話番号しか書いておかなかったのだ。いざ連絡してみると、その番号はすでに別の人が使っており、住所も変わっていた。が、私は簡単な略歴を原稿に付けていた。

略歴の出身地と本名からNTTに問い合わせて、私の電話番号を突き止めたのだった。で、呼ばれて、東京で出版の打ち合わせをすることになった。徳間書店は当時、新橋の烏森口のほうにあった。古いビルで、有名出版社の建物とは思えず、驚いた覚えがある。

ビルにはいると、宮崎アニメの『天空の空ラピュタ』のポスターがべたべたと貼ってあった。編集部に行って、石井さんと今井さんにご挨拶した。話ではやはり、200枚という原稿分量では単行本にするには短いので、400枚以上にする必要があるという。

書き直しにあたって、たんに分量を引きのばすのではなく、逆にギュッと凝縮してほしいといわれた。つまり、200枚のストーリーを元に800枚書き、それを400枚に濃縮したようなものにしてほしいといわれたのだ。私は納得し、帰省すると、さっそく執筆に取りかかった。

その後、紆余曲折はあったが、1986年の夏に私の初小説『疾れ風、咆えろ嵐』が出版された。ラッキーなことに、編集部でたまたま私の小説を目にした筒井康隆氏が、帯の推薦文を書いてくれた。自分が愛読した作家から推薦文をいただくというのは夢のようなことだった。

初の単行本が出ると、私はすぐに次の小説の執筆に取りかかった。そして他社からの執筆依頼も次々と来た。中央公論社や朝日ソノラマからは単行本の依頼が、ほかにも雑誌から短編の依頼が来た。私は急に忙しくなった。そこで、ピアノ教室の仕事を徐々に縮小していった。

ラジオの仲間は私の小説家デビューをとても喜んでくれた。ピアノ教室は縮小したが、ラジオや、榊原忠美との朗読セッションはつづけていた。そのうち、ラジオは番組の構成だけでなく出演もおこなうようになった。また、地元のテレビ局からも出演依頼が来るようになった。

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