2010年5月17日月曜日

オーディオブックの真実 Vol.6

無料配信長編小説は、2作がほぼ同時に収録がスタートしたと記憶している。ともに夏目漱石で、『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』だった。前者は相原麻里衣が、後者は田中尋三が朗読。これは現在もアイ文庫から販売されているほか、iTunes Store などでも買える。

『坊っちゃん』も『吾輩は猫である』も、ともに一回分の分量は5分前後。それを7、8回分、調子がよければ10回分くらい一度に収録する。相原麻理衣は住まいが近所ということや、作品自体が短めということもあって、『坊っちゃん』の全編収録は一ヶ月くらいで終わった。

その収録の合間に、やはりワンルームマンションの一室では録りにくい、ということで、もう少しましな収録場所を探していた。といって、資金がないので、防音室が完備したスタジオなど借りようもない。ワンルームより騒音問題が「まし」な貸し部屋を探した。

すると歩いて数分の近所(梅丘)に、一軒家の一階部分があいているのを見つけた。うまい具合に、二階部分も人が住んでおらず、大家の物置状態になっているようなのだ。これならけっこう静かな状態で収録作業ができるかもしれない。と、そこを借りることにした。

しかし、借りて使いはじめてみてわかったのだが、その一軒家はかなりの安普請で、外からの物音はほとんど筒抜けなのである。また、二階は物置にしか使っていないとはいえ、時々大家が荷物の出し入れのために出入りする。そのときの足音が一階を直撃するのだ。

そして立地は交差点のすぐ近く。バイクやトラックなど大きな音を立てる乗り物の通過や信号待ち、近所の犬のほえ声、道路での立ち話、カラスの鳴き声、そして大家が二階に出入りする音。そういったもので収録作業はしばしば中断させられるはめになる部屋だった。

それでも数ヶ月はだましすかし、がまんしながら使っていたろうか。その間に相原麻理衣による『坊っちゃん』の収録は全編を終えることができた。彼女は大変な努力の人で、滑舌や発声など日々の訓練をおこたらず、声優のなかでも突出した技術力を持っている人だ。

『坊っちゃん』の読みも、「きっぷのいい調子」で小気味よいテンポとなっている。収録のほうも、環境が最悪にも関わらず、予定より早く終わった。田中尋三による『吾輩は猫である』は、彼の住まいが遠方だったことや、テキストが大変長いということもあって、てこずった。

『坊っちゃん』の収録は終わったが『吾輩は猫である』がまだゆっくりと進んでいたとき、もうひとつの長編収録がスタートした。やはり夏目漱石の長編小説『三四郎』である。これは高橋恵子の教え子のひとりだった神崎みゆきに読んでもらうことにした。

長編朗読を収録する間にも、短編も収録しており、もちろんラジオ番組の制作もつづいていた。そして収録環境の「まし」な場所探しも。私の住んでいた豪徳寺のワンルームと梅丘の一軒家のあいだに、いまはもうないが、酒屋が一軒あった。よくそこで飲み物を買っていた。

ある日、酒屋のおばさんと話しているとき、この店の横に地下に通じる階段のようなものがあることに気づき、そのことについて聞いてみた。すると、地下はがらんとした倉庫のような地下室になっていて、いまはだれも使っていないのだという。借り手を探しているのだという。

さっそくその地下室を見せてもらうことになった。酒屋は1階が店舗、2階が貸し部屋、3階と4階が大家である酒屋一家が住んでいる住居となっているビルで、地下室は思ったより広かった。幅5メートルに奥行きが10メートル、それにトイレなどの突き出しスペースがあった。

地下室なので、入口のドアを閉め切れば地上の音はほとんど聞こえない。この広い空間全体を、完全な静穏スタジオとして使える。朗読だけでなく、音楽収録スタジオとしても使えるほどだった。問題は家賃だった。月額20万で、とてもそんな額を毎月払う余裕はなかった。

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