榊原氏のような優れた朗読を、だれもができるようにはならないのだろうか。そういう疑問とともに、私には切迫した事情もあった。とにかくラジオ番組として聴くに耐える朗読を、若い声優たちにもやってもらわなければならない。こうして朗読研究会がスタートした。
有志の声優やナレーターの卵何人かに集まってもらってスタートしたプライベートな朗読研究会。場所は私の豪徳寺の自宅。ワンルームマンションの一室。最初は研究材料として、実際に番組で使う私の原稿を使っていたが、それではあまり勉強にならないことがすぐにわかった。
私の番組用スクリプトは、音声化を前提に書かれていた。原稿を書くとき、私の頭のなかでは朗読される声が聞こえている。なので、読むのにあまり苦労はない。それでは全然勉強にならないのだ。そこで朗読研究会で用いるのは、私のテキストではなく、昔の文芸作品にした。
昔の文芸作品は、若い朗読者にとってはなかなかの難物だった。まず読めない字がある。意味のわからない言葉がある、またイメージできない描写がある。文章の裏の意味がある。裏の裏の意味まである。つまりまずは読解の方法を学ばなければならなかった。
ただ書かれた文字を読むだけなら、小学生だってできる。音声読み上げソフトだってある。そうではなく、音声表現として文字情報以上のものを人に伝えるためにはなにが必要なのか。声優たちも勉強したが、私も徹底的に考え抜き、研究する日々がスタートした。
読解、日本語の発音発声の基礎、朗読表現。まったくの手探りだったが、私がもっとも心を砕いたのは、すべてのことについて可能なかぎり客観的・論理的にアプローチする、というものだった。というのも、声優の卵たちから聞いた声優学校での教育方法に大きな疑問を感じたからだ。
声優学校やタレントの養成所では、ほとんど「実演者」が指導をおこなっている。つまり、アナウンサー、ナレーター、声優などの経験者、現役の人たちが講師となって指導しているのだ。そういう指導は利点も多いが、限界もある。利点としては「よいお手本」をすぐに示せる。
生徒は先生のお手本を物まねすればすぐにうまい読みができるようになる。しかし、この方法には欠点もある。お手本を真似するので、どの生徒も似たような表現になってしまうことが多いのだ。実際にある事務所の養成所出身者には独特の癖があり、すぐそれとわかる人がいる。
声優学校にも固有の色があって、日ナレである、アナウンスアカデミーである、青二である、など、共通の癖がついてしまう人もいる。実演者が指導する際の問題点のひとつだ。もうひとつの問題点は、実演者は「自分の経験則」に従って生徒を指導しようとする、ということがある。
経験則は役に立つことも多いが、その「原理」を理解しないまま盲目的に教えたり教わったりすることには問題がある。ある人に役立った方法が、必ずしもほかの多くの人にも応用できるとは限らないからだ。とくに「読み」のような個人表現の場合、個性が重要になってくる。
経験則を超えるためには、原理を徹底的に理解する必要がある。日本語発音発声の場合、たとえば「滑舌」の問題。仮に「か行」が苦手、とくに鼻濁音が苦手、という話者がいたとする。その場合、まずやるべきは、彼がどのように「か行」を発音しているかの自身の観察であ。
おなじ「か行」といっても、人それぞれ身体の構造が違っている。「か行」に限らず、発音発声はすべて骨格と筋肉の動きのコントロールによっておこなわれている。コントロールをおこなっているのは感覚神経からの情報にもとづく運動神経である。
感覚神経、運動神経、筋肉、そして骨格は、人それぞれ全員、働きが違う。よくいわれることだが、運動神経が発達して人もいれば、にぶい人もいる。また筋肉が弱い人もいれば、骨格の構造は少しずつ違う。骨太の人もいれば、骨が細い人もいるのだ。顎の骨ひとつとってもそうだ。
「か」という発音をおこなうときにどのように骨格が動くのか。それを動かしている筋肉はどれなのか。そういった原理をしっかりと観察できていなければ、それぞれ微妙に違っている個人個人の発音をコントロールすることは難しい。原理を理解した個人が個別にやるしかないのだ。