キッド・アイラック・アート・ホールにおいて先行(有料)試写会があるというので、内容に興味をひかれたこともあって行ってみた。
監督は岩名雅記という人で、名前はなんとなく聞いたことがあるが、映画監督としてではない。
岩名雅記氏は舞踏家なのだ。
失礼ながら、その踊る姿も観たことない。
チラシ以上にはなんの予備知識もなく、この監督のほかの作品も観たことない。
というまったくの白紙状態で観た。
出だしのところでドキュメンタリー映画なのかと思ったが、どうやら老女役の人は役者で、演技らしい。
セリフをしゃべっている。
そしてしばらくすると、おぼろげながらストーリーらしきものがあるらしいこともわかってくる。
しかし、そんなことはどうでもいい。
映像詩といってもいいようなシャープなカットが、ときにはたたみかけるように、ときにはじっくりと迫り来るように展開していく。
話は現代の老女と、戦時中らしい囚われの若い女というふたつの軸を中心に、しかしそれぞれさらに時間軸が行ったりきたりしながら進む。
ストーリーを追うことは無意味だ。
監督のねらいはストーリー性なのだろうか。
一貫して表出している戦争にたいする憎しみと、最後のほうに出てくる原発事故への強烈な批判の言葉。
それらを成立させるためのストーリーを監督はねらったのかもしれないが、観ているこちらにはあまり関係ない。
この映画の本質は「身体感覚」だ。
監督が舞踏家だからいうのではないが、映像には肉体の感覚、するどくとぎすまされた身体性、感受性、そういったものなしでは成立しないものが打ちこまれている。
手触り、におい、味、音、エロティシズム、しかもただそこにあるのではなく、岩名氏によって強くつかみとられ、そこに、キャンバスに色彩を置くように塗りこめられている。
舞踏家が映画を作ったらこうなった。
では、舞踏家が小説を書いたら?
舞踏家が音楽を演奏したら?
舞踏家が絵を描いたら?
舞踏家が朗読したら?
舞踏家でなくてもいい、表現者がみずからの身体感覚をきびしく自覚し、感受性をとぎすませたとき、作品はどう変わるだろうか。
映画を観おわったとき、私は思考を自分のほうに引きよせ、そんなことばかりかんがえていた。
この映画は3月1日からキッド・アイラック・アート・ホールで連続上映されるらしい。