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現代朗読体験講座などでかなりの頻度で参加者から相談を受けることがあるのが、「読むときに語尾が消えがちになる癖があるんですが、どうすればいいですか」
というものだ。
たとえば、夏目漱石『坊っちゃん』の冒頭だったら、
「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」
という文章の「している」の「る」が消えてしまうというのだ。
これには明確に理由があるし、その癖を治すことも比較的簡単だ。
朗読するための文学作品などのテキストは、文の集まりから成り立っている。
この「文」が朗読するときのひとつの単位とかんがえている人が多いし、またそういう側面はたしかにあるのだが、このかんがえかたは「意味」にかたよりすぎていると私はかんがえている。
文はこまかく見れば、さらに以下のような要素で成り立っている。
文
文節
音節
音素
文と文節には「意味」がつきまとう。
「親譲りの」「無鉄砲で」というふうに、ことばの意味を受け取りながら読む人が多い。
しかし、文節にはさらにこまかく「音節」の要素もある。
最後の「損ばかりしている」という文節も、意味をとらえて読むために、「音節」という音としての要素がなおざりにされるため、消えてしまうことがある。
この部分は、
「そ・ん・ば・か・り・し・て・い・る」
という9つの音節で成りたっている。
音楽でいえば、9つの音符が並んでいると思っていい。
9つの音符が並んでいれば、どれひとつとしておろそかにしては演奏しない。
朗読もそれとおなじことだろう。
意味ではなく音。
文章以前に音声としてあるものが、朗読表現というものだ。
もちろん表現である以上、選択肢は表現者の側にある。
音を出すも出さないも、朗読者の選択だ。
「そ・◎・ば・か・◎・し・て・い・◎」
と音節を無音にして読むことも、選択肢としてありうる。
音素については、また別の機会に記したい。