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同級生が同級生を陰湿な方法でいじめたり、仲間はずれにしたり、暴力やリンチをくわえたり、恐喝したり。
教師が生徒を恫喝したり、追いつめたり、暴力をふるったり、プレッシャーをかけたり。
タレントの女の子がグループ内のルールを破ったという理由で丸坊主になって謝罪会見をおこなったり。
これらはすべておなじ根っこを持っている問題だとかんがえる。
人がなにかあやまちを犯す、設定された目標をこなせなかったり予定どおり到達しなかったり、ルールや法律を守らなかったり、自分たちとおなじ行動が取れなかったり調和を乱したり、といったとき、少しでも権力の上位に立っている者が該当者を「こらしめる」という方法をとる。
「懲罰」によってふるえあがるのは、それを見ている「権力の下位にある者」である。
自分も懲罰を受けまいとして、権力上位者のいうことや設定されたルールにしたがおうとする。
権力上位者はそれがねらいであり、別の言葉でいうと「みせしめ」という行動になる。
基本的に法治国家における法律もこの仕組みで成り立っている。
悪い(と法律に書かれている)ことをすると罰せられる、だから法律は破らないようにする。
これが「法治」という報復的手法による秩序の作り方だ。
いじめも体罰も丸坊主も、おなじ報復的手法の仕組みが適用されている。
報復的手法は一定の効果があるし、げんに多くの国において秩序はそのもとで(かろうじて)保たれているわけだが、この手法の決定的な欠点は社会構造を権力と非権力の側に細分化してしまう、ということだ。
国家権力と市民、といった大きな構造だけではない。
職場などの組織、個人と個人のあいだでさえ、友人や夫婦のあいだでさえ、権力構造を作りだす。
一時的にせよ、長期間にせよ、権力構造は維持される。
それを逆転させようとする絶え間ない争いも起こる。
権力の下位に立って「みせしめ」を見る者は、心身が萎縮することを避けられない。
罰を受けまいとして一定の枠内におさまっていようとするからだ。
スポーツにおいて心身の萎縮は成長・成績を阻害するものであることは自明であるのに、「みせしめ」がなくならないのは、権力者側(指導者)の自分の権力を守ろうする意識が、選手を伸ばそうとする意識より強いからだ。
つまり指導者が弱く自分に自信がなければないほど、権力意識は逆に強まる。
本当は弱い男がやたらとにらみをきかせた気難しい顔をいつも保ち、ことあるごとにどなりちらすようなのもこれとおなじだ。
いじめもおなじ構造を持つ。
指導者が本当に選手たちの成長をねがっているのなら、謙虚になり、選手たちの思いをともに大切にして共感し、どうすればよりよい競技者になれるのかをともにかんがえる姿勢になることは自然なことだろう。
もし自分の方法に誤りがあれば、すなおに認めて正していくだろう。
それが選手たちの成長のためであれば。
これを共感的手法、もしくは修復的手法という。
自殺も丸坊主も私はもう見たくない。
どちらもまったく美しくない。