現代朗読協会では、テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するためのゼミナールを、4月から開講する。
1980年代末から90年代半ばにかけて、私はパソコン通信時代のNIFTY-Serve内「本と雑誌フォーラム(FBOOK)」というコミュニティのお世話役(シスオペ)をやっていた。このコミュニティ内に「小説工房」というコーナーを作り、それを主宰していた。
そこはいわば「商業出版のための虎の穴」のような場所で、数多くの小説家やライターが巣立っていった。いちいち名前はあげないけれど。
この活動はひとつのムーブメントとして大きな評判を呼び、通産省から何かの賞を受賞したりもした。
また、この成果は青峰社から書籍『小説工房』『小説工房2』として活字化された。いまでもアマゾンのマーケットプレイス(古本)などで入手できるはずだ。
その後、私自身は商業出版の世界から距離を置き、朗読や音楽を核に「表現とはなにか」ということを考えるようになった。
経済システムのなかにいると、表現についての本質的な思考ができない(すくなくとも私は)。小説を書いていたときも、書きたいもの/自分を伝えるためのものを追求するのではなく、売るための小説/お金を稼ぐための文章に目的がすりかえられてしまっていた。しかし、ものを書くのはお金を稼ぐためではなく、なにかを人に伝えるためなのだ。
商業出版からいったん離れ、音楽や朗読、ラジオ番組といった音声表現の世界にいったん戻った。これは私が20代のころからやっていたことだ。
こちらの世界でもやはり商業主義があり、経済システムの原理が強く働いている。が、幸い、いったん離れていた世界なので、比較的客観的に見たり接したりできた。ようやく「表現」について本質的な思考と実験ができるようになった。
いま私がやっているのは、あまりに細分化され、ジャンル化されすぎてしまった表現の世界を、原初的な視線で見直すことだ。
現代朗読協会という検証と実践の場で、たとえば朗読表現に演劇、語り、音楽、ダンスといった時間と空間を共有するパフォーマンスの原理を応用できることがわかった。またこれらの表現に共通にあるコミュニケーションの原理もわかってきたように思う。
では、時間と空間を作り手と受け手が共有しない表現についてはどうだろう。文学、美術、写真、映画、といった表現のことだ。
これらの表現にも共通の表現原理があり、また上記のようなリアルタイム性の強い表現とも通じる考え方ができるのではないか、ということを最近考えはじめている。
しかし、まだ考えはまとまっているとはいえない。
いま始めようとしているテキスト表現ゼミでは、参加者の皆さんといっしょにテキストを用いた表現の本質をさぐり、同時に自分自身の本来の書きことばを探す、という試みをおこないたいと思っている。
かなり難しい作業になるかもしれない。あるいは実は簡単なことであり、あっけなく楽しいものであるのかもしれない(そうだといいですね)。
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