息が声になり、声がことばになる。
やがてことばは文字になり、詩や物語になる。それをまた声に出して読みあげれば朗読。メロディをつければ歌。
詩も小説などの文章も、音楽も、朗読も、ことさらに区別しなくてもいいんじゃないか、と最近は思いはじめている。いずれも自分を人に伝えるための手段だし、また共感しあうための手段でもある。
現代社会は経済活動がすべてに優先される傾向が強いので、音楽にしても文章にしても朗読にしても、表現物や表現行為がお金になるとわかれば、上手にお金もうけの仕組みを作る人があらわれる。それはそれでかまわないと思うし、お金もうけ自体が目的の人を否定するつもりもない。が、表現者までそれに巻きこまれて、お金が目的化してはつまらない。
お金のために表現するのではなく、自分を人に伝えるために表現していたのではなかったか。あるいは子どもが楽しげに歌ったり絵を描いたりするように、大人だって自然な内的欲求によって表現をするのではないか(結局のところそれはだれかとの共感を求める行為につながっていくのではあるけれど)。
私がなにかを書いて売ったり、入場量をいただいて演奏したりするのも、私自体を買ってもらいたいのではなく、私がおこなっている共感共有の活動を支えてもらうためであります。