表現行為において、自発的な「やりたい」という気持ちはどこから来るのか、かんがえてみた。
表現なので、「自分を表現したい」という内在はあるものの、それ以上に向かうべき外在がある。外在がなければ、内在は生まれない。「自分を表現したい」にはかならず目的格がある。「あなたに」あるいは「あなたたちに」「彼らに」。
「やりたい」が生まれるのは、「やること」の結果が相手に「よろこばれる」もしくは「必要とされている」ことがあらかじめ予想されるときだ。
これが予想されない場合、「やりたい」ではなく「やらねば」に変化する。まことに殺伐とした心象が出現することになる。私のかつて目撃した多くの朗読がそうであった。相手に「感心してもらいたい」とか「自分のいいところを見せたい」とか「間違えないようにしなきゃ」とか「稽古通りにやれるだろうか」といった気持ちを持って表現の場に出た場合、そうなることが多い。
前者について、例をあげてみよう。
最も自主的に「やりたい」という気持ちが生まれるケースを想定してみる。たとえば、恋をしているとき。
恋をして、付き合い始めたばかりのころ、恋人からなにか頼まれごとをしたとする。たとえば、とても他愛ないこと。
「教室にノート忘れたから取ってきてくれる?」
あなたは喜んで取りに行くだろう。なぜなら、あなたは恋人が喜ぶ顔を見たいから。恋人の役に立ちたいと心から思っているから。
これが恋人でなければどうなるか。たとえば外出している親から電話がかかってきて、
「財布忘れたんで、スーパーまで持ってきてくれない?」
といわれたら、たぶんむかつく。いやいや持っていきこそすれ、喜びはない。が、もし親が心から感謝してくれたら、そのむかつきはかなり解消する。次に頼まれたときには、あまりむかつかずに持っていってあげるかもしれない。
この「恋人」と「親」のふたつのケースについてかんがえみよう。
恋人が相手だと、あなたの心は恋人と「深くつながりたい」という気持ちに満ちていて、実際に深くつながっていると実感しているかもしれない。人は自分と深くつながっている相手には、喜んでもらいたい、なにかしら役に立ちたい、という自主的な気持ちを持つ。
親が相手だと、あなたの心は「深くつながっていたい」という気持ちが希薄である。いや、なかには深いつながりを持っている親子もいるかもしれないが、たいていの日常的関係性においては希薄なものである。でしょ?
深くつながっていない相手に対しては、喜んでもらいたいという気持ちも希薄だし、頼まれごとをすれば「めんどくさいなあ」という気持ちが生まれてしまう。
しかし、そんな相手であっても心からの感謝を受け取れば、じつは大きなつながりがあったことを思い出すことができる。その場合、ふたたび喜んでもらいたい、役に立ちたいという気持ちがよみがえってくるのだ。あなたが子どものころ、親に対していつもそうであったように。
表現行為においてもこれとおなじことがいえる。
深くつながっている、もしくは深くつながりたい、という相手には、自発的に「喜んでもらいたい」「自分を伝えたい」というような気持ちが生まれる。相手にどうこうしてもらいたい、ではなく、自分がどうしたい、という立地点からスタートするのだ。
そこにはピュアな表現の動機がある。
ピュアな動機で表現がおこなわれたとき、相手もまたそれをピュアなプレゼントとして受け取ることができる。当然、プレゼントを受け取った者はお返ししたくなる。つまり、感謝であったり共感であったり、なんらかのコミュニケーションにおけるプレゼント交換がおこなわれる。
現代朗読ではこのようなプレゼント交換としての表現の勉強をしている。
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