現代朗読協会の活動はゼミと呼んでいる、毎月15回前後、定期的に開催している集まりが中心になっている。
カルチャーセンターや声優・アナウンサーが開いている朗読講座などとはちがって、ゼミではなにかを一方的に「教える」ということはしないし、そのためのカリキュラムもない。
ゼミ生たちはただ自分がやりたいことを持ってくる。
なにかを読みたい者はただ読んでみんなに聴いてもらったり、「今日は聴きたいだけ」という気分の者もいたり、あるいはなにか明確な目的があったりする者もいる。
たとえばライブや公演が近づいていて、その稽古をすることもあれば、私が演出的アドバイスをすることもある。
いずれにしても、なにか決まった内容があるわけではない(基礎訓練は別)。
このゼミで私がもっとも大切にしているのは、だれかの朗読を聴くときに「評価/判断/非難」といったことを捨て、ただ「共感的」に受け取ることをしよう、ということだ。
私たちはだれかが朗読したり歌ったり演奏したり踊ったり、なにか表現したとき、それにたいしてある「評価」をくだそうという「癖」を身につけてしまっている。
学校教育のなかで身につけてきた癖であり、また評価・効率・競争的な社会で暮らすうちに骨の髄までしみこんでしまった癖だ。
その癖に気づき、やめていき、そして共感的に表現を受け取る練習をしている。
だれかが評価的な耳ではなく共感的な耳でこちらの朗読をただ受け取ってくれている、批判や非難をぶつけられる心配がないという安心感があるとき、人は自分がなにを大切にしているのか気づくことができる。
評価的耳で聴かれていると、こちらもついついそれに対抗して自分をよりよく見せようと力んだり、自分以外の何者かになろうとしたり、本当の自分のニーズにつながることができなくなったりする。
が、共感的耳で聴かれると、自分の内側を見つめ、ニーズにつながり、自分と相手を信頼してのびやかに表現できる。
共感的耳で聴かれているとき、自分が自分以外の者になってしまったり、背伸びしたり、ニーズにつながっていないことに気づくことができるし、そのとき自分の真のやりたいこと、価値、ニーズがくっきりと見えてくる。
私は長いあいだ、音楽の世界でも物書きの世界でも、評価との戦いばかりつづけてきた。
その結果、自分が本当はなにを大切にしているのか、自分の真にやりたいこと/喜びはなんなのか、自分の価値はなんなのかということにずっと気づけずにいた。
とても残念なことだと思う。
しかし、いまはちがう。
共感的に私を聴いてくれる仲間がたくさんいるので、いつも自分自身につながっていることができる。
とても幸せなことだ。
ゼミ生のみんなも、ゼミという場のこのような本当の価値に気づいてくれているといいな、と思う。
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