2013年11月29日金曜日

表現の場における「評価」の扱いについて

朗読にしても音楽演奏にしても、あるいはダンスや絵画や文学にしても、私たちがだれかに向かってなにかを表現したとき、かならず相手からなんらかの反応が返ってくる。
絵画や文学のように直接反応が届かない、あるいはタイムラグがあるようなものもあるし、朗読・音楽・ダンスといった表現のようにリアルタイムに反応が返ってくるものもある。
その反応が好意的なものだと私たちは喜び、批判的であったり悪意に満ちたものであれば私たちは動揺したり落ちこんだりする。

たいていの場合、反応は他者による「評価」という形でおこなわれる。
「評価」にはよいものもあれば、悪いものもある。
つまり「よい/悪い」という価値判断が伴うことが多い。

表現にたいしてそれが「よい」または「悪い」という価値判断はどのようにしておこなわれるのだろうか。
人がなにかにたいしてなんらかの価値判断をくだすとき、その判断基準は後天的に身につけてきたものだ。
教育や家庭生活、社会活動のなかで学習し、身につけてきた価値基準にもとづいて、評価をくだす。
私がピアノを弾いたとき、それを「よい/悪い」とオーディエンスが評価するのは、彼のなかでどのような演奏が「よい」もので、どのような演奏が「悪い」ものであるかという、音楽を聴いてきた経験のなかでつちかわれた価値基準がある。
つまり、その「評価のことば」は、彼が外形的に身につけている外部評価基準であって、彼自身のこころや身体から出てきた反応ではない、ということだ。
もっといえば、彼の「評価のことば」は彼自身とはなんの関係もない。

私たち表現者は、評価的反応に接したとき、そのことばを聞く必要はない。
なぜなら、そのことばは彼とはなんの関係もないものなのだから。
では、どうすればよいか。

ここからは共感的コミュニケーションのスキルになるのだが、彼がその評価的ことばを発することになった彼の価値/彼が大切にしていることに目を向ける。
たとえば彼が、
「きみの朗読はもうすこし滑舌がよくなるとすばらしいのにね」
といったとき、こちらは、
「滑舌が悪かったんだ、しまったなあ」
と落ちこむのではなく、彼がなにを大切にしているからそういうことをいったのか、に目を向ける。
彼は朗読表現において言葉やストーリーが正しく伝わることを大事にしていて、滑舌の悪さが気になったのかもしれない。
彼のその価値を見たり推測したりすることで、評価的ことばで一喜一憂するのではなく、相手とつながることができる。
表現の場はそのようなチャンスの場でもある。

※以上のようなことを、先日おこなった「現代朗読基礎コース 第7回」のなかでレクチャーした。
その模様を抜粋してYouTube番組「あいぶんこ朗読ポッド」で配信しているので、そちらもご覧いただきたい。
※現代朗読基礎コースの次期スタートは2014年1月18日(土)です。詳細とお申し込みはこちら