2014年10月23日木曜日

「エロイヒムの声」について

11月2日(日)夜にサラヴァ東京でおこなう朗読・群読・身体表現・即興音楽の「ののみずしゅん」公演では、私が25年前に書いた「エロイヒムの声」というテキストを朗読・群読で使用する。
稽古を2回ばかりおこなったのだが、これが我ながらトリッキーな奇作で、まあやりにくいったらありゃしない。
しかし、おもしろいんだな、あらためて朗読テキストとして見てみると。

いずれ朗読公演で再演してみたいと思ってはいたのだが、そもそも最初は演劇シナリオとして書かれたものだ。
1989年の名古屋の劇団〈クセックACT〉のための書き下ろしシナリオとして提供した。
クセックはロルカやセルバンテスといった、スペインの作家の作品ばかりをバロック演劇として上演している。
座長の神宮寺啓が南山大学のスペイン語学科を出ているということがあるのだろう。
30年以上の歴史を持つ名古屋では古株の前衛劇団なのだが(古株の前衛というのも変だな)、その長い歴史を通して日本人作家の脚本を使ったのは「エロイヒムの声」ただ一度きりだ。
まことに光栄なことである。

もの書きとしては、自分が書いたものが舞台にかけられ、役者たちのリアルな身体を通して表現されるというのは、作家冥利につきるものだ。
ただ一点のみをのぞいて。
その一点とは、その舞台に私自身が立っていなかった、ということだ。

私は書き手であるが、同時にパフォーマーでもある。
現在は幸運なことに、現代朗読協会という表現団体を主宰しているおかげで、自分が書いた作品がステージにかけられるとき、自分もまたそこに立っていることが多い。
つまりピアノを弾いているんだけど。
これはおもしろい体験だ。
自分が書いた作品が朗読者たちによって身体化され表現されているそのリアルタイムな場に、さらに自分自身も加わっているという多重性。
自分の作品を非常に客観的に見ることができると同時に、主観的に表現することにも参加する。

劇団のなかには、座長がシナリオを書き、同時に役者としてステージにあがるというものもあるが、それとはちょっと違う。
私は役者でも朗読者でもない。
即興音楽という抽象表現者だ。

それはともかく、25年前に書いたテキストが、いまあらためて朗読・群読テキストとしてふたたびステージにかけられることになった。
ややこしいテキストなので、どう構成するか非常に悩んだのだが、トリッキーな文章にはトリッキーな手法で対処することに決めた。
公演本番ではどなたにも驚いていただけるだろうと思う。
出演者自身も驚くことになっている。

ストーリーは説明しても意味がないので説明しない。
などと不親切なことをいわずに、機会をあらためて説明を試みてみることにする。
「エロイヒムの復活とかぶとむし病院の崩壊の物語」とだけいっておこう。

※ののみずしゅん+現代朗読「エロイヒムの声」@渋谷〈サラヴァ東京〉は、あと10日の11月2日(日)夜。詳細と予約はこちらから。