会期が今日までというので、富士見台でのいきいき音読ケアの帰りに直行して、キッド・アイラック・アート・ホールで開催されている絵画展「k.a.n.a. solo exhibision 『room』」を観てきた。
kanaという人がどういう人なのか知らない。
この展覧会もどういう経緯があるのかも知らない。
キッド・アイラック・アート・ホールから案内をもらったので、なんとなく気になって参加ボタンを押し、会期最終日の今日行ってみただけ。
これほど見事に先入観なしになにかを観るというのは、かんがえてみればめったにないことのような気がする。
まったく前知識なしの展覧会に、会期最終日に行って、ただそこにかかげられている絵を観る。
貴重な体験だったかもしれない。
なにかを観に行くとき、否が応でもなんらかの事前情報が仕込まれてしまうことが多い。
とくに情報が氾濫している現代においては、耳をふさいでいてもはいってきてしまう情報がある。
それがまったくなしで展覧会を観られるというのは、私にとっては新鮮な経験だった。
キッド・アイラック・アート・ホールの上にギャラリーがあることは知っていた。
が、まだ一度も足を踏み入れたことはなかった。
事務所が3階にあるので、3階と4階にまたがってあるギャラリーは少し知っていた。
が、5階のギャラリーは見たことがなかった。
エレベーターで4階にあがり、外階段をのぼって5階まで。
コンクリート打ちっぱなしの四角い部屋のギャラリーがそこにあった。
明るい。
そこにkanaという人の油画や、ライブペインティング作品らしいものがかけられていた。
幼い女の子を連れた若い男性がいて、親子らしく、女の子と話したり遊んだりしていた。
展覧会のお客さんというより、なんとなく人待ち顔で、差し入れらしい紙袋がギャラリー中央にいくつか並べられた折りたたみ椅子のひとつの上に置かれていた。
作家の知り合いなのかもしれないと思った。
入ったところのすぐ左に、プリントアウトされた作家の略歴が貼りつけられていた。
私はそれを見てはじめて、この作家がどういう人なのか、わずかな知識を得た。
作家はまだとても若い人で、芸大出ではなく、しかしすでに何度か個展をやったり、ライブペインティングをたくさんやったり、身体表現にも関わっている人だと知った。
もっとも、実をいうと、作家のプロフィールを見たあとで作品を見るのは好きではなく、略歴を読んだのはひととおり作品を見てからだった。
作品、というよりペインティング、もしくは身体の動きの記録ともいえる作品は、フレッシュなものだった。
気持ちがいい、というだけではなく、心の奥の陰影をかきおこされるようなところがあった。
具象と抽象の中間のように感じたが、そういう区分は必要ないものだろう。
私は個人的に、入口正面の左壁面の大きな絵(タイトルを失念した)と、入口のすぐ右脇の下にあった、小さな、ちょっとルオーを想起させる色使いの絵好きだと思ったが、その理由について言葉で説明するのはむずかしい。
そのあと、3階の事務所に寄って、槐多朗読の日程を決めさせてもらった。
早川くんに、
「こういう若い作家を応援するのはうれしいね」
と伝えた。
私はそう若くもないが、現代朗読協会は誕生してまだ7年めの若い表現集団であることを意識して、そういったのだった。