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常々思っていたことだが、いま私たち現代朗読の仲間がやっていることは、ほかのどこもやっていない表現についての研究と実践だ。
とくに「朗読」と呼ばれている表現ジャンルについては、私たちはほかとはまったく異なるアプローチで、まったく異なる地平へと到達した実感がある。
朗読表現についての原理的な私的思考と実験は、たぶん2004年ごろからはじまって、2010年ごろに佳境にはいった。
それが一気に実践的なレベルに落としこまれたのは、2011年の東日本大震災がきっかけだ。
私が55年かけてやってきたこと。
音楽。
テキスト。
音声表現。
パフォーミングアート。
現代思想と芸術評論。
バラバラで並行していたことが、突然ひとつのつながりを持ち、別の顔を現わしはじめたという感触がある。
それが2013年の今年、くっきりとした成果として現れてきた。
現代朗読についての原理的で根源的な論理的解釈。
これは世間一般でおこなわれている漠然とした「朗読」という行為とははっきりと一線を画する、表現としての朗読に命と地位を吹きこむ基盤になりうると自負している。
日本語の発音・発声や文章解釈といったちまちました表層的技術を越え、より普遍的な深層的技術体系を作りうるものに手が届いた実感がある。
なにを見ても、なにを聴いても、なにをやっても、統一感があって、ものがクリアに見えはじめているという実感でもある。
だてに歳をとったわけじゃない、という喜びもある。
いま私がいちばん危惧しているのは、せっかくここに届いたこの実践的成果を、だれにも伝えられずに消えてしまうのではないか、という残された時間との葛藤だ。
私が見ているものと人が見ているもののギャップが、あまりに大きいという危惧がある。
それをどうやって埋めることができるだろう。
ひたすら伝えていくしかない。
伝えていくプロセスのなかでまたあらたな気づきがある。
それをまた伝えていく。
伝えても伝えても追いつかないかもしれない。
それは私にとって、死の瞬間まで喜びに満ちた時間であることを意味する。