先日、そら庵で合同ワークショップを開催したときに、セルフ足もみを指導してくれたフットセラピストの中村珠央さんが、ワークショップの感想をブログに書いてくれていたので、それを紹介しつつ、私のお返事&お礼としたい。
ブログ「出張&プライベートsalon 『玉響』」はこちら。
丁寧に時系列にそって当日の内容を紹介してくれているのだが、なかでもこの部分に私はぐっときた。
------------
朗読って一人でするものだと思っていたけど、多人数で身体表現を取り入れて
行う現代朗読は、コミュニケーション能力や感覚を鋭敏にする上でも効果的な
メソッドであり、有りのままを見聞きするってこういうことなんだと実感できた
貴重な体験となりました。私たちは何かを見ているようで、実際は自分の
内側に閉じこもって別のものを見ているのだということが、不慣れな
テキストをみんなで読み合わせている時に、身をもってわかったのです。
テキストを読むのに精一杯で近視眼的になり、周囲の声を聴けなかったり
周囲で起こっていることに何の注意も向けられなかったり。
日常の中でも有りのままの世界を見ているようで、きっと沢山の物事を
遮断し、無意識に現実のほとんどを取りこぼしたりそぎ落としたりして
いるのでしょう。
水城さんは、自分の声しか聴かず周囲の音や気配を感じられないのは、
表現においてそれはとても薄っぺらいことだとおっしゃいました。
------------
そうそう、そうなんですよ、珠央さん!
未熟な表現者は、なにか表現を作りあげるとき、ひたすら「再現性」を求めてしまう。つまり、何度も練習し、練習で作りあげたことを本番でもなぞろうとする。練習は本番でそのとおりにやるための練習となってしまっていて、本来ライブ表現が持っている生き生きとした「いまここ」の感覚をなおざりにしてしまう。
ライブ表現における「いまここ」の感覚を豊かに持つためには、まわりから自分のなかに入ってくるたくさんの情報をどんどん受け取り、反応していくことが重要になる。自分の身体と感覚を開いておく必要があるのだ。
さらに珠央さんはこうも書いている。
------------
テキストを引きで見ながら、周囲の存在を観察し声に耳を傾けていると、
鮮明に自分の立ち位置が見えてきて、同時にパっと色んなものが色づいて
見えるのが不思議でした。鮮やかに多くのものが自分の中に入ってきて、
呼吸も身体も楽になっていくような感覚です。
最近特に気づき始めていたことだけど、何か一点に没頭することや、内側に
入っていくことが集中することではないのですね。究極の集中状態とは、
何か特定のものに注意を払うことではなくて、今起こっていることすべてに
全身で注意を払うということなのだと思います。その中で、自然と内側から
立ち上っていく生理的な疼きのようなものが、反射的に他者と呼応し、
形を変え流れていく。そんな現象すべてが感覚器や知覚を通じて
色濃く身体に入ってくる状態が、真の集中状態なのではないかと考えます。
------------
そのとおりで、なにかひとつのことに没頭するのは「集中」ではなく「執着」なのだということは、武道の世界などでもいわれていることだ。
自分がおこなっていることに完全に集中しながらも、周囲で起こっていること、周囲からの情報も完全に受け取れている状態。スポーツの世界ではそれを「フロー状態」などと呼んでいるが、パフォーマンスの世界でもそれは起こる。表現者にとってもっともすばらしい体験の瞬間だ。
これは特別なことではなく、だれもが体験できる世界だ。そのためのエチュードを現代朗読はたくさん用意している。
珠央さん、ありがとう。
またご一緒できるときを楽しみに待っております。