2015年1月18日日曜日

演奏に代金は払いたくないのか

(おことわりする必要もないことでしょうが、念のために、以下は私見です。寛大なこころでお読みください)

タイトルのブログ記事を読んだ。
本文はこちら

プロなら演奏するにはお金をもらうべきだ、対価を払わない人は失礼だ、無償ボランティアなどありえない……
こういうかんがえかたをする人がたくさんいる。
また、こういうかんがえに対してたくさんの「イイネ」がつく。
理解できないことはないが、私はこういうふうにはかんがえない。

私のかんがえかたは、ひとことでいって、
「プロならお金をもらおうが、無償だろうが、ボランティアだろうが、どんなシチュエーションでも最高のパフォーマンスを提供したい」
いまパッと思いついたことなので適切な例なのかどうかわからないけれど、書いてみると、たとえば吉永小百合が東北の被災地の人から朗読に来てほしいと依頼されて「ギャラが出ないなら行かない」といっている場面を想像できるだろうか。
まあそのへんは事務所とかマネージャーがきっちり処理するのかもしれないが、彼女個人ならきっと交通費が自腹だったとしても喜んで行くような気がするな。
といって、直接の知り合いではないのでわかんないけど。
イメージですよ、たとえばの!

そもそも、プロ/アマチュアという区分すらおかしなことだと、私は思っている。
その区分は経済社会のなかで生まれたものであって、私たち表現する者とはなんの関係もない。
あえてプロかアマチュアか、という区別をもちいるとすれば、「それを生きているのか、あるいはそれは趣味なのか」程度のものになるだろう(私にとっては)。

私はだれが見ても、あるいは社会的に規定されるとしても、プロのもの書きであり、プロのピアニストであろうが(それでお金をいただいているし、本やCDも出ている)、自分がプロであるかどうかは自分がそれを生きているかどうかで決める。
他人の評価や社会的規定で決められるのは遠慮したい。
音楽を生きているか、ものを書くことを生きているか、表現することを生きることの中心に置いているか、これをただ自分に問う。

なので、お金をいただこうが、いただくまいが、私が生きられる場所にはよろこんで行くだろう。
このブログだってそうだ。
おアシはいただいていないが、ここは私が生きている場だ。

老人ホームや病院にももちろん喜んで行く。
施設に予算があればお金をいただけるかもしれないし、予算がなければ無償で行くかもしれない。
交通費すら出ないかもしれないが、そのことで怒ったりはしない。
怒るならそもそも受けないし、怒る理由があるとしたらたぶんそれはお金の問題ではない。
自分が尊重されるかどうか、という問題だろう。
もちろん、尊重が金銭的な対価という形で示されることもあるだろうし、そのことを私は否定するものではない(もちろんうれしいし)。

この方もお金の問題のように書いているけれど、おそらくもっとも大切なのは「尊重されているかどうか」なのではないかと思う。
それをお金の問題とごちゃまぜにしてしまう人が多いように思う。

では、あんたどうやって生活するんだよ、生活するには金がいるんだよ、という問題をきっと突きつけられることだろう。
げんに何度も訊かれてきた。
私のなかではすでに解決ずみのことなのでわざわざ書くのもめんどうなのだが、ちょっとだけ書いておくと、音楽家は演奏対価だけに頼らずに生活できるようにみずから知恵を絞り、また社会性を身につけ社会と積極的に関わることで生きていく、そういうことがいまの時代には必要なことではないのだろうか。

これはもの書きについてもいえる。
そもそもすでに現代社会において、だれかが書いたもの、だれかが演奏したもの、だれかが作ったもの、そういったいわゆる形のないコンテンツに対して対価を支払おうという仕組みが崩壊してしまっている、という現実がある。
その現実のなかで、音楽家は、作家は、どのように生きていけるのか、自分が生き、なおかつ社会から必要とされ、また社会に影響を与え、関わりつづけていくにはなにができるのか、ということをきちんとかんがえなければならない。
と、私は思っている。