2015年1月2日金曜日

武術(韓氏意拳)と文章を書くこと

正月からまじめに武術の個人練習をやっている。
雪国の実家にもどり、けっこう積雪があるので、雪かきと稽古を交互にやっている感じだが、おかげで体調はすこぶるよい。
といっても、通常の武術の稽古のような型稽古や組手はいっさいない。

私が稽古しているのは「韓氏意拳」という、「武」にたいするアプローチがいささか変わっている武術だ。

韓氏意拳では徹底してすべてのおこないを「我がこと」として見ていく。
手をあげる、という動作ひとつとってみても、「その手のあげ方は〈あげる方法〉やある種の〈型〉、あるいは無自覚な〈運動軌道〉をなぞっているのではないか、ということを厳しく検証していく。
検証といっても、それができるのはもちろん、自分自身しかない。

手をあげるというおこないが、かんがえや外部的な「なぞり」からもたらされたものではなく、本当に自分の身体の声にしたがい全身をともなった自然な表現としていまあるかどうか、そのことを厳しく問いながらおこなっていく。
ことばで説明するのは難しく、こうやって書いていてもはたして韓氏意拳でおこなっている稽古の本質が伝わっているのかどうか、はなはだたよりない。
たぶん半分もつたわっていないだろう。
体験してみてください、というしかないのだが、まああえてもうすこし書きすすめてみよう。

韓氏意拳にかぎらず、私たち人間はさまざまなおこないを無自覚にやり通してしまっていて、それはまさに「やろうと思えばやれる」世界なのだが、本当にそれは自分自身の生きている必然から生じたことなのだろうか、という疑問がある。

たとえば、私は文章を頻繁に書く人間だが、なにげなく書いているこの文章そのものが、ほんとうに自分の内側から生まれた言葉として書かれているのかどうか、きちんと見てみる必要がある。
油断していると、だれかから聞いた言葉、一般にいわれていること、想像といえば聞こえはいいが妄想から生まれたかんがえ、そういったものが次から次へと出てきて、行を埋めていってしまう。

本当に自分のことばとしての文章を書くこと、自分の身体の感触をともない、自分自身の存在のリアリティから表現される文章を書くこと。
これは本当にむずかしく、厳しい世界である。
しかし、それをめざすことで自分の表現がみがきあげられていく実感と、よろこびもある。
厳しいが楽しい世界なのだ。

その厳しさを追求する具体的な手段として、私は韓氏意拳に取りくんでいる。
武術をやっているのは、なにも自分が強くなりたいとか、だれかを倒したいとか、身を守るのに役に立つとか、そういう目的を持っているわけではない。
ただただ、自分自身を知るためにおこなっているといっていい。

韓氏意拳に出会ってから、私は発見の連続だった。
自分ってこうなっていたのか、自分はこんなことをやってしまっていたのか、本当の自分自身の姿はどんなふうなのか。
かいま見えるものがちらちらとある。
まだまだそれを深く知りたいと思う。
書きながら、稽古しながら、それを往復しながら、今年も深くふかくダイブしていくことを楽しもうと思っている。

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