(承前)
新井区民活動センターは中野駅の北口から歩いて十五分ほどのところにある。
住宅街のなかにある静かな区の施設で、私は時間に遅れないようにすこし早めに出かけた。
韓氏意拳東京分館では中野のほかにも何か所かで体験講習会を開催していて、中野はだいたい毎週水曜日の夜に開催されている。
韓氏意拳のウェブサイトからそれに申しこんだのだ。
講師は内田秀樹準教練とあった。
もちろん私は会ったことがない。
早めに行ってみると、建物の入口のところで若い男性がなにか用事があるらしく、しきりに電話したり出入りしたりしていた。
この人も受講者なんだろうかとちょっと思ったが、武術をやっているという感じはしなかった。
入口で部屋をたしかめると、奥のほうの和室で講習があるらしい。
行ってみると、長いあご髭をのばした年輩(といっても私くらい)とがっちりした感じの男性、ほかにももうひとりくらいいた。
だれが先生なのかわからなかったので、私は年輩の男性に、初めての参加であること、受講費はどうすればいいのか、などをたずねてみた。
男性は自分は講師ではないといった。
受講費は適当なタイミングで先生に払えばいいらしい。
やがて入口のところにいた若い男性がはいってきて、私の顔を見ると、
「体験の方ですか?」
といった。
そうですと答えると、かばんからなにやら資料を出して渡してくれた。
それではじめて私は彼が内田準教練であることを知った。
まったく拳法の先生という感じがしないので拍子抜けしたのをおぼえている。
時間になり、「さて、はじめますか」と内田先生がいい、全員が立ちあがった。
「形体訓練から」と内田先生がみじかくいい、ほかの全員がなにやら両手を振る運動をはじめた。
私はなにもわからなかったが、先生と参加者のまねを見よう見まねではじめた。
それにしても、武術の稽古によくある「礼」をふくむはじまりの儀式のようなものはなにもなければ、道着を着ている人もいない。
みな普段着でいきなりはじまった。
あえていえば多少動きやすい服装をしているくらいか。
私はこれまでいくつかの武術を経験してきたが、いずれも道着や服装が決まっていたり、稽古をはじめるときの儀式めいたものがあったり、指導者を神格化するほどに畏敬させられたり、といったことがあった。
韓氏意拳にはそういうものがいっさいない。
この点も私が韓氏意拳を気にいり、またそれゆえに敬意を持てるゆえんでもある。
指導体系に確固たる自信と根拠がなければこういうふうな形にはなりえないからだ。
最初にはじまった両手を振る運動は、初級形体訓練というもののなかの最初の動き「前擺《チェンバイ》」と呼ばれるもので、初めてやったときには「なんだかのんきな運動だなあ、これで拳法が強くなれるのかなあ」などとぼんやりとかんがえたりしていた。
しかし、この運動が深くふかく韓氏意拳の威力の秘密につながっているものだということが、だいぶあとになってわかってきたのだった。
(つづく(笑))