2010年8月5日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.32

しかし私は思う。朗読というものは、もっとスリリングだし、共感的だし、驚くようなことが起こる場だし、音楽コンサートを聴く人々が持つような一体感をも作れる表現方法なのだ。自由で暖かく、スリリングで、個性的だ。人がイキイキとつながりあえる表現の場でもある。

いったいだれが朗読をこんなに窮屈で固定的・限定的な入れ物にしてしまったのだろう。私はその入れ物をいったんバラバラにし、うんと風通しをよくしたいと思う。実際に現代朗読ではそれができるようになったと確信している。現在の現代朗読協会のありようを知ってもらおう。

前にも書いたように、現代朗読協会の参加メンバーの顔ぶれは、数年前から一変してしまった。利益と等価交換を求める人はいなくなり、代わりにごく普通の、でも自己実現や表現、人とのつながりに強い興味を持っている人たちがやってくるようになった。多くはゼミ生になる。

ゼミ生になるには、まず現代朗読協会の正会員になる必要がある。が、その方式に、私はコンテンポラリーアートの考え方を取りいれている。何度も書いてきたように、現代朗読協会は等価交換の場ではない。一定の金銭をいただいて、それに見合うだけの技術を与える場ではない。

ゼミ生には「現代朗読協会という学びの場を継続的に存在させるための必要な金銭その他」を提供していただきたい、というリクエストをしている。これもあくまで「リクエスト」であって、強制ではない。金銭および「その他」というのは、例えば労働力であったりする。

労働力以外にも、あらたな会員を紹介してくれたり、ライブの告知宣伝をしてくれたりと、いろいろな貢献方法がある。ゼミ生についてもっとも大事な考え方は、この学びの場を成立させ、継続的に参加するために無理のない自分なりの貢献方法を見つける、ということだ。

自分なりの継続的な貢献方法が見つかれば、それを申告してもらう。金銭であれば、毎月このくらいなら無理なく継続的に払えるという金額を申告してもらう。経済的に余裕のある人なら毎月1万円以上を継続的に払えるかもしれないし、経済的に苦しい人は数千円かもしれない。

あるいはまったくゼロ円かもしれない。それでも活動に参加するには、現代朗読協会まで来る必要があり、交通費もかかる。だから、ゼロ円でも大歓迎なのだ。朗読をやりたいという人がいて、その人が金銭的理由で我々の活動に参加できない、という事態は可能な限り排除したい。

そもそも表現行為というものは、朗読に限らず、経済活動は関係のないはずだ。歌いたければ人は歌えばいいし、書きたければ書けばいい。読み聞かせたければ読み聞かせればいい。そのことを学びたいという人がいて、経済的理由で学べないとしたら、それはとても悲しいことだ。

しかし、学びの場を維持するには、金銭も労力もある程度必要だ。それをみんなで支えてもらうという考え方を採用している。この方式を最初に説明すると、たいていの人はびっくりする。が、理解してもらえればとてもスムーズに、おだやかにものごとが進んでいく。

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