「アイ文庫はクオリティの高いオーディオブック制作をおこなっている会社です」
というツイートが、ときどきアイ文庫ツイッター(@iBunko)で流れてくる。botでランダムに配信しているツイートの一節なのだが、ある者から、
「クオリティが高いとはどういうことなのか、定義して」
といわれて、絶句してしまったことがある。
絶句した、というのは、つまり、うまく説明できなかったからだ。
ところが、ときどき流れてくるこのツイートをながめていて、ついいましがた、ハッと気づいた。
うまく説明できなかった、という事実こそ、クオリティという言葉の本質を表しているのではないか。
クオリティというのは、英語の「quality」で、日本語の意味は「品質、性質」といったことになるだろう。
この言葉自体に「品質が高いこと」を含んでいる。だから「クオリティが高い」というのはダブルミーニングかもしれない。
最近は茂木健一郎などによって「クオリア」という言葉が有名になった。
私たちがなにかに向かって「これはクオリティがいい」というとき、感覚はどんな働きをしているのだろうか。
たとえば、ワイン。
ワイン通の人はたんに「おいしい」「まずい」という表現だけではなく、「クオリティ」を問題にする。クオリティ=品質を問題にするとき、そこには自分の「好み」は極力排除されているように見える。彼らはなにか客観的基準を想定して、クオリティの評価をくだしているように見える。
その客観的基準とはなんだろう。
ここがやっかいだと思うのだが、ワイン通の人にはワイン通の人にしか通用しない客観的基準があって、それはある言葉や情報単位でワイン通以外の人に説明することは難しい。あるいは不可能だ。私はワイン通ではないので、ワイン通の人が「このワインはクオリティが高い」と判断したとき、それを味わってみてそのとおりかどうか確認することができない。私のなかにはワイン通の人たちが持っている共通の客観的基準がないからだ。しかし、ワイン通の人たちの間では、まちがいなく、それはクオリティが高いと共通に認識することができるのだ。
では、その客観的基準はどうやったら獲得することができるのか。ワイン通の人たちはどうやって共通の客観的基準を獲得できたのか。
答えはひとつしかない。ワインの世界にどっぷりと我が身を浸してみるしか、それを獲得する方法はないのだ。
これはワインの世界だけでなく、日本食であったりフランス料理であったり、あるいはクラシック音楽であったりジャズであったり、フィギュアスケートであったり、現代美術であったり古美術であったり、さまざまな世界に共通にあることだ。もちろん朗読やオーディオブックの世界にもある。
クオリティの良し悪しは、その世界にどっぷり浸っていない人に対してその客観的基準を説明することは不可能である。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高い、ということの理由を、オーディオブックを聴いたこともない人はもちろんのこと、どっぷりと浸って聴きこんでいない人に対して説明するのは不可能といっていい。
だから、冒頭のツイートは、オーディオブックにどっぷりとはまっている人に向かってのみつぶやかれている「排他的ツイート」ということができるかもしれない。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高いのだ、ということを多くの人にわかってもらうには、オーディオブックにどっぷりとはまってしまう人をどんどん増やすしか方法がないのである。