ツイッターで、
「朗読するとき噛んでしまう」
という悩みを聞いたので、現代朗読のワークショップでやっている方法を紹介することにした。
ワークショップでは「噛まないように読むにはどうしたらいいか」という質問をよく受ける。
読み違えたり、つっかかったりして、表現の流れがそこでとぎれる。表現の断絶が意図的なものならともかく、意図的でない場合、読み手は、「しまった」と思い、それが声と身体にあらわれてしまう。
じつは、読み手が「噛んだ」ことよりも、噛んだことによる「しまった」という身体性のほうに、むしろぎくっとする。その証拠に、噛んでも平気で、あたかも噛んだ事実などなかったかのように読みつづけている朗読者にたいして、オーディエンスはすぐにその事実を忘れてしまう。
ひょっとして噛んだことに気づかないことすらある。とはいえ、読み手としては意図的なものは別として、噛まないに越したことはない。
噛む原因はいくつかある。
(1) テキストがきちんと身体にはいっていない。
(2) 読み急ぐ。
(3) 滑舌が悪い。
興味深いことに、書いた本人(つまり著者朗読/ポエトリーリーディングなどでよくおこなわれる)ですら噛むことがある。本人が書いたのだから、そこになんと書いているのかわからないはずはなく、それでも噛むということは起こる。
著者であろうがそうでなかろうが、抽象的ないいかたになるが「テキストを身体にいれていない状態」で読んでいるからだ。著者とて、書きあげたあとは、読者/朗読者としてテキストに接することになる。その際、そのテキストが、自分が書いたものかどうかはあまり関係ない。あらためてテキストを「読みなおす」必要がある。
いうまでもないが、自分が書いたものではないテキストを読む朗読者は、テキストをあらためて念入りに「読みなおす」。それとおなじことが著者自身にも必要になるということだ。その逆のこともまた有効だ。
自分が書いたものでない他人が書いたテキストを読む場合でも、あたかもそれが自分が書いたテキストであるかのように念入りに接するのは、朗読者にとって非常に有効である。そもそも、どんな「テキスト」も、それが書かれ、生まれた瞬間がある。
「親譲りの無鉄砲で、子どもの時から損ばかりしていた」
これは夏目漱石の『坊っちゃん』の冒頭部分だが、このテキストもまた、夏目漱石がそれを原稿用紙に書きつけた瞬間があり、まさにそのときに生まれたのだ。
その誕生の瞬間のことをイメージしてみよう。
ペンが原稿用紙の上を走り、文字を書きつけていくそのイメージ。あたかも自分がそれをおこなっているように想像し、その身体つきを思いなぞりながら、ゆっくりとテキストを読んでみる。
まず噛まないはずだ。これは(2)の問題も自動的に解決する。
(3)の問題。
滑舌というのは、骨格と筋肉の働きによってその良否が決定される。アナウンサーやナレーターの滑舌がよいのは、訓練によって骨格と筋肉の働きがコントロールされているからだ。
もっともどんな優秀なアナウンサーでも、みずからの能力を上回ることはできない。つまり、滑舌が悪いというのは、みずからの能力を上回ってことばを流暢に話そうとするときに生じる齟齬だ。
それを解決するにはふたとおりある。みずからの能力内でゆっくり丁寧に話すか、滑舌能力をあげるためのトレーニングをするか、である。
朗読者が滑舌よく流暢にことばを発することによって得られる表現的利益は、ほとんどないと私はかんがえている。それより、自分の滑舌能力を認識し、じっくり丁寧に、それこそ「書く」かのように読むことが、伝える表現のためには効果的なのではないだろうか。