2010年8月3日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.30

2007年の暮れのことだったか。西荻窪の〈遊空間がざびぃ〉というところで、現代朗ウィークということで「読まれなかった手紙」という公演シリーズを上演したことがある。そのなかで、私の書きおろした「初恋」というテキストを、私と榊原忠美のふたりでやった。

前衛的な朗読で、といっても私と榊原のふたりにとっては25年前から日常的にやってきたパフォーマンスであり、とくに珍しいということはなかったのだが、「朗読」を期待してきた方には、一種のショックがあったようだ。シリーズだったので4演目の通しチケットが出ていた。

一番最初の「初恋」を見て、ショックを受け、残り3演目をすべて払い戻しして帰られた中年女性がおられた。気の毒だったとは思うが、「初恋」はその後、2回、3回と再演を重ね、2010年の今年6月末には、名古屋のちくさ座で作曲家の坂野嘉彦氏も加えて再演された。

ドイツにおける20世紀パフォーマンス史の研究をされている東京外国語大学の西岡あかねさんも、ネットで野々宮のパフォーンスを見て、「日本でもこういうことをやっている団体がいたんだ」と驚きつつ来てくれたひとりだ。ドイツにはダダという運動があった。

表現主義ともいうが、20世紀最初の抽象表現運動だった。それはヴォイスパフォーマンスの世界にも取りいれられ、ドイツではいまだに前衛的な朗読が盛んにおこなわれているという。ドイツに限らず、欧米では朗読表現にもコンテンポラリーアートの手法が取りいれられている。

コンテンポラリーアートはドイツのダダを始め、欧米では美術や文学、さらには演劇や音楽やダンスなどのパフォーミングアートの世界に取りいれられていき、現代芸術の主要な流れとなっている。朗読も当然ながらその流れのなかで語ることができるのだが、ところがである。

日本に目を向けたとき、とても特殊な風景が展開している。日本でも美術や音楽、演劇、ダンスなどにもコンテンポラリーの手法は取りいれられ、盛んに実演されているが、朗読だけが特殊事情なのだ。朗読をやっている人でコンテンポラリーを意識している者を私は知らない。

前にも書いたが、朗読をやっている人はそのほとんどが「放送技術」の延長線上でやっていて、コンテンポラリーアートとして表現活動をしている人を日本ではほとんど見つけることができない。なぜこういう事態になっているのか、私は長い間わからなかった。

最近、こういうふうな事情ではないかと考えるようになった。日本ではアニメ文化が発達した。また、洋画の「吹き替え」という文化もある。こういうなかで、声優やナレーターといった職業が発達した。そして声の仕事をしたいと思ったら、そのような専門学校に行くことになる。

朗読会が開かれることがあるが、ほとんどがアナウンサー、声優、ナレーターといった「声の仕事」をしている人であり、それはまた放送やメディアの人々でもある。まれに役者が朗読をしていることがあるが、それでも放送の人たちの朗読イメージに引きずられていることが多い。

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