2016年5月6日金曜日

通奏低音としての「悲しみ」を味わう

ゴールデンウィークの最後の日がその日なので、自分の誕生日を忘れることはあまりないんですが、今年もその日がやってきました。
あらためて年齢を確認すると気が遠くなりますが、この年齢に自分が到達したことについて、そうわるい感じはありません。

よくいわれることですが、年をとると、若いころにはできたことがだんだんできなくなっていく。
たとえば身体的なことです。
若いころのようには走れなくなった、疲れやすくなった、回復力がおとろえた、身体がかたくなった、というようなこと。
逆に、年をとることで、若いころにはできなかったことができるようになることもある。
経験値があがり、知識や技術も身についてくる。

数値化できるわけではありませんが、差し引きでいえば私は確実に、年を重ねて失ったものより、得たもののほうがはるかに大きく、充実した毎日をすごせているといえます。
それはとてもありがたいことで、多くの人とのつながりや協力があって成立していることだとも思います。

いまの私にとって大切なこと、いきいきしていることを、キーワードでならべてみると、こんな感じでしょうか。

 マインドフルネス
 フローとゾーン
 音楽と瞑想
 小説(テキスト表現)
 共感的コミュニケーション(NVC)
 現代朗読
 音読療法
 武術(韓氏意拳)
 日本みつばちと環境問題

30年以上つづけてきたこともあれば、数年前にはじめたばかりのものもあります。
いま現在の特徴は、これらのことがそれぞれつながりを持ち、お互いに補い合って、複雑なパズルが組みあがるように私のなかで整合性を持ちはじめた、ということでしょうか。
自分のなかで大きな統合が生まれ、それがパワーになっているのをまざまざと感じています。
しかし、それを十全に発揮するところまではまだ行っていません。
どうやって発揮するか、それがいまの課題です。

それとは別に、この年齢までやってくると、若いころには想像もできなかったある「喪失感」の陰のようなものが前方に見え隠れしています。
その先にはこの世における自分の「消失点」があります。
そこに向かって、私にかぎらずだれもがそうですが、なにごとかを喪失しつづける日々が加速していく予感が、具体的な実感に近づいてやってきています。
ある種の「怖さ」かもしれませんが、若いころに想像していたような恐怖ではなく、それは「諦め」をともなった独特の「悲しさ」の音響をともなっています。

朝めざめると、その音響が通奏低音のように私のなかにあることを感じます。
それはけっして悪い感じではありません。
喪失の予感ではありますが、一種の豊かさをともなってもいます。
この感じをうまく説明することはできませんが、その通奏低音があることで、私の感覚と活動が豊かになることを味わっています。
いま、私にしかできないこと、私にしか伝えられないことを、丁寧に表現していきたいという望みがふつふつとあるのです。

下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、夜開催は5月11日(水)20時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。